タイのブミポン国王がお亡くなりになって、ボブ・ディランがノーベル文学賞だとかで、世界がいろいろ動いているのだか、これから動くのだか。まあ、何かの「変化」なのかもしれない、とか思っている。
思いながらも、寝るのだが。
「このままではいけない」
誰もが、そう考えているような気がする。確かにそういう意見も聞いたり読んだりする。
しかし、ならばどうするか、何を変えるか、何を始め、何を止めれば良いのか。
未来は混沌として、ソーシャルネットではあることないことが乱れ飛ぶ。「確からしいこと」は確かなことではなく、「こんな酷いこと」は、よくよく確かめると事の様相が違うものだったりする。
おそらく「社会は成長する」という、これまで確かだったことは不確定になり、社会的な価値観が個人の中で、地域の中で、国の中で流動する時代は、今しばらく続くだろう。そうとしか思えない、社会の動きは続いていくような気がする。
そんな社会の中で、社会を構成する私たちは、自分たちの「社会の見方」を変更し、「社会との関わり方」を変更し、それによって「社会の進む方向」を変更する必要を強く感じながら、「ならばどうする?」という質問の前に立ちすくむ。
答えは簡単で「できることをする」しかない。個人にできるのは、それだけだ。
ここは割り切るしかない。日本の社会を概観して「やらなければならないこと」「やるべきこと」「やったほうがいいこと」がどれだけ山積していても、ひとりの個人にできることは限られている。すごく限られている、と言っていい。
現在、日本社会の鳥瞰図は大きく変化しようとしている、と感じている。
そこでは「社会の見方」が変化し、「社会との関わり方」が必然的に変化していく。極度の少子高齢化、経済格差・情報格差の拡大、社会基盤の分断と崩壊、解消できない対立感情。
個人の考える「みんな」の範囲は事あるごとに縮小し、「仲間」は両手で数えられるほどに減少し、逆に「日本人は」という括りで語られる言説は全体主義的になり、国家主義的になる。
実は「全体主義」や「国家主義」は、価値観の流動化する社会の中で生きるには「楽な生き方」なのかもしれない、と思ったりもする。自分で考え、自分で悩む必要はなく、誰かの考えに流され、誰かの怒りに共鳴し、誰かの言説にただ乗りするのは。それはとても「楽な生き方」なのだろうな、と思う。
でも、それではいけない、と同時に思ったりもするのである。
「社会の見方」が変化し、「社会との関わり方」が変化する状況の中では、自分で考えて自分で判断し、自分の人生を自分で選び取る必要がある。そういう「自分の人生の基礎」を固めて置かないと、他人の言説、他人の怒り、他人の考えにいいように振り回されてしまうようになってしまうのではないか。
流動化する社会を泳ぎ、溺れずに未来に辿り着くには、誰も見ようとしない「未来の社会」を「発見する、あるいは発明する」必要があるのではないか。
それは、個人ではできないことなのかもしれないが、その僅かな欠片でも手に入れられたら、「未来に対する希望」を見つけられるのではないか。
そんなことをふと考えたりする。
曖昧ですんません。
どうも、参院選以後、テンションが下がり気味。
参院選の時は、政治に対するコミットメントは、国民の一人として必要なことだと思い、いろいろ文章を書き連ねてきましたが、その後の都知事選でテンションが下がってしまったようで。
参院選の結果を受けての様々な言説と都知事選への動きが重なったことで、都知事選に向けて意識を集中できなかったというのもあるのですが、さらに小池百合子氏のフライング立候補と自民党本部、都議連とのごたごた、野党統一候補への動きと、独自に立候補を表明しては取り消した数々の候補者と、突如湧いて出てきた、という印象しかなかった野党統一候補。
都知事選の公示日には「どうしたものやら」という気分になっていて、これではいけない、と思いつつもテンションは上がらず。
ひとつには、前知事の辞任を受けての選挙であり、選挙の準備が参院選と重なったことにより、都政の課題についての議論があまり深まらなかったように見えたこと。前知事の「政治と金」についての追求が都知事に就いていた期間ではない件にも拡がったことで、「都知事としての資質を問う問題なのか」どうかが曖昧になってしまったような印象を受けたこと。
有力候補とされた候補者に、都政に対する具体的な政策があまりはっきりと見えなかったこと。さらに、投票日直前まで具体的な政策を提示できなかった野党統一候補。
「誰を、どういう基準で選べと?」と聞きたくなるような選挙戦になってしまったな、という感想だけが残り、そのことでブログに何か残すような材料も見つけられず、という状況で。
その意味では、都政の課題がどこにあって、どの分野にどんな問題を抱えているのか、ということを自覚的に認識していなかった自分、というのを改めて突きつけられたような気にもなったりして。
都知事選の結果は結果です。野党統一候補は都民に受け入れられなかった。かと言って、都民は自民党都議連の候補にも投票しなかった、と言うこともできます。与党も野党も、政党支部は得票を減らしている、ということは言えるのではないのでしょうか。その中で(自民党に党籍を置いたまま無所属扱いで立候補した)小池氏が票を得たことについて、しっかりと分析する必要があるのは野党でしょう。自民党は結果往来で済ませてしまうでしょうから。
与党の言説の劣化も目に余るものがありますが、野党の言説の劣化はそれよりさらに酷いものがある、とも感じたりしています。
代議員を選出する「選挙権」は持っているけれど、国政への関与のハードルが高い「ただの一個人」には、国政の民主主義を確かなものにしていくために何ができるのか、考えたほうがいいのだろうな、と思うのですが、問題はその「具体的な手段・方法・言葉」なのでしょう。
有権者は「無力の王」である。または「無力」であるがゆえに、「王」のような態度で国政を見渡し、国民の意見を国政に届けていく存在である。
…という言葉を思いついたが、ただの思いつきなのでスルーして下さい(笑)。
国民主権の民主主義国家において、国民は主権者であるわけだが、主権者であると言って個人が自分勝手に国政に介入することはできない。国政は「国民の代表者」としての「代議員」が担当し、国政による恩恵は国民が受け取る。
「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。」(憲法前文)
自分勝手な主張はいくらでもできるし、時には賛同者も現れたりするだろうが、個人または小集団の「勝手な主張」は、考えの違う個人や集団の反対に会って実現は不可能になる。
それぞれの個人が勝手な意見を披露し合うだけでは国家を上手く切り回すことはできない。なので、意見を集約し、それを代議員に託し、代議員による意見交換と議論、異なる意見の磨り合わせをおこなって国家を上手く切り回すための方針を決定し、実行していくことになる。
その代議員を選ぶ方式として、日本を始め多くの民主主義国家では「選挙」という方式を採用している。国政ならば全国民の中から選挙権を持つ「有権者」が投票し、候補者の中から多数の票を得た者が「代議員」として選出される。
たかが一票、されど一票。
一億人の有権者が投票する(またはしない)国政選挙において、「一票」というのはとても小さく感じるかもしれない。それは地方選挙においても数万、数十万分の一という数字は小さい、と感じる人も多いのかもしれない。
しかし自分の考えが自分勝手なものではなく、他人にも通じるものだと感じるのなら、同じか似たような考えの人は、必ず他にもいるし、ひとつの課題に対する国政の選択肢というのは無数にあるわけでもない。
だとしたら、一つの課題について同じ選択肢を選ぶ有権者はそれこそ、有権者全体の何割かはいることになる。自分がどれかを選択をするとしたら、同じ選択をする人は必ずいるし、それも相当数いることになる。
日本の選挙は「政策を選択する」選挙ではなく、「候補者を選択する」選挙なので、政策課題を考えるのとは少し違うかもしれないが。
それでも、誰かひとりが「今回は選挙に行ってやろうか」と思った時、同じ思いを抱く人は国内のどこかにいるだろうし、そうした人々は全国規模で考えれば、投票率を1%くらいは上げ下げするレベルに達するのではないか、とか思ったり(妄想したり)する。
選挙の制度について考えることも必要なのかもしれないが、現状では有権者が自分の持つ一票を選挙に活かすには、候補者の誰か(または政党)の名前を書き込むしかない。そのルールに従って一票を投じることで、その結果は厳密な数字として結果に現れる。
たかが一票。無力に見える一票。
されど、自分の一票。自分の意見を表明する、自分に与えられた権利。それは、使ってなんぼの国民の権利でもある。
明日は選挙。行きますよ、もちろん。
今回の参院選、個人的な考えでは、国民としての選択は一択だと考えています。
現在の安倍政権による恣意的な国会運営に反対。
現在の安倍政権の、国民への説明不足、時には説明を放棄する姿勢に反対。
「立憲主義」「民主主義」「国民の基本的人権」を否定する与党、与党政治家、与党追従政党・政治家に反対。彼らに憲法を改正させることにも反対。
以上が主な理由になるでしょうか。あくまで個人的な考えですが。
いよいよ参院選の投票日が近づいてきました。もちろん期日前投票を済ませている方も多くいて、「投票日に投票すること」について語ることの重要性は少なくなっているかもしれませんが、「投票期限(最終は投票日)」まで投票する候補者を迷っている方もいるでしょうし、「迷うこと」も個人によっては大切なことだと思います。
国内に政治的な課題は多く、様々な見方があります。それぞれの課題については、選挙期間だけでなく、常日頃から考えて行く必要があると思います。
問題点がどこにあるのか、原因はどこにあるのか、問題を解決することは可能か、可能ならどういう方法が考えられるのか、考えなければならないことは多岐に渡ります。
という訳で、あれこれの問題については、できるだけ考えたり文章にまとめたりすることを、これからも続けたいな、と思ってますが。
今回の参院選については、特に書き残しておきたいことがあります。
今回の選挙でも、前回、前々回と同じように、与党が勝利すれば、その後「全面的な信任を得た」と強弁することは必至でしょう。
信任を得たから、与党のやることは全て正しく、総理大臣の考えに「間違いはまったくない」と主張するでしょう。「総理大臣が言っているのだから間違いない」という発言もあるように。
つまり、参院選で与党に勝利勝利を与えることは、これまでの様々な「国会軽視」「遵法意識の欠如」「憲法無視」に対する「免罪符」を与えることになってしまうでしょう。
「安保法制特別委員会での強行採決(人間かまくら)」も、その後の「国会議事録への採決書き加え」(公的な議事速記録の書き換え)も、その後の野党による臨時国会開催の要求に対して「国会を開かない」を宣言(憲法53条を無視)も、「国民からの信任」を盾にして反省することなく、さらに与党が望む法律を(国民の意見を聞くことなく)強行に採決しようとするでしょう。
国の方向性を国民が決める(民主主義)こと、国会・内閣が暴走することを防ぐために憲法を遵守させる(立憲主義)ことを守りたいなら、与党または与党追従政党・政治家に投票することはできないことなのではないか、と僕は考えます。
こういう投票姿勢は、「各政党の政策を見比べて、実現してほしい政策を主張している政治家を応援する」という態度とは、異なった投票姿勢であり、「戦略的投票」と言えます。
ですが、今回は戦略的投票で構わないし、戦略的投票が必要なのだろう、と考えています。なぜなら、選挙では「経済」ばかりを主張しながら「秘密保護法制定」「集団的自衛権の容認」「安保法制改正」を次々を強行し、あるいは閣議決定のみで決定し、国民の意見を聞こうとしない態度そのものが、「選挙による国民の選択」を蔑ろにするものであることは、明らかではないか、と思うからです。
政権がそういう態度を取るのであれば、国民の側でも黙っている訳にはいかないのではないか、と思います。まさに「国民、なめんなよ、無視すんなよ」です。
国民のひとりとして、主権者のひとりとして、国民を無視し、個人の人権を敵視する政党には、積極的に反対する必要があると考えます。
そのために取る方法が、「野党への投票」です。あくまで、僕は僕自身の考えで投票しようと思っています。
もちろん違う考えの方もいらっしゃることは知っていますし、それぞれの考えで投票されれば(投票しないで人の考えに任せるかされれば)いいと思います。