乱反射の光跡 in hatenablog

なみへいのブログです。hatenablogヴァージョン。

TPPを巡る動き、備忘録代わりに

TPPを巡る動きについて、目に止まったものだけになってしまうが、備忘録代わりにメモ。

9月29日、福井照衆院議員は、二階派総会で「西川公也先生の思いを強行採決という形で実現するよう頑張らせていただく」と発言。


9月30日、自民党は、福井照衆院議員をTPP特別委員会から外すことを決定。江藤拓議員へ差し替え。


10月7日、経団連自民党の高村副総裁、二階幹事長らと都内のホテルで懇談会。榊原会長はTPPや、パリ協定への早期の承認を求めた。


10月18日、山本有二農水相が、都内で開かれた佐藤勉議運委員長の会合で「強行採決するかどうかは佐藤さんが決める」と発言。


10月19日、衆院TPP特別委員会理事会で、山本農水相は発言を謝罪、撤回。辞任には応じず。


10月21日、参院TPP特別委員会の設置を議決。委員長は林芳正農水相

11月1日午前、自民党竹下亘民進党山井和則国対委員長が国会内で会談、2日の特別委員会での採決、4日の衆院本会議での採決をすることで合意。参院の両国対委員長も7日からの参院での審議入りを確認。


11月1日夜、都内で開かれた自民党議員のパーティで挨拶した山本有二農水相は「冗談を言ったら首になりそうに」と述べ、野党の批判を浴びることに。菅官房長官は山本氏に注意。

11月4日、衆議院本会議の告知。その中でTPP特別委員会が開会。野党の抗議の中、TPP承認案を強行採決。自民、公明、維新の賛成で可決。
佐藤勉衆院議運委員長は、「遺憾の意を表して」本会議の開催を中止、本会議でのTPP承認は週明けに。

11月7日、与党は8日のTPP承認案の本会議採決を見送ることを決定。カザフスタン共和国大統領の国会演説前に国会に混乱が生じることを避けたか。民進党山本有二農水相不信任決議案提出に向けて調整。

11月10日、衆院本会議で山本有二農水相不信任決議案を否決。その後、TPP協定の国会承認議案と関連法案を自民党公明党日本維新の会などの賛成多数で可決。民進党自由党社民党は採決に退席。共産党は採決で反対。

 

11月11日、TPP承認案と関連法案の審議が、参議院で審議入り。

 

とりあえず、大ざっぱだが。

 

なんとなくのメモ

とりあえず、見聞きしたことのメモのみ。

 

NHKニュース7
気象衛星「ひまわり9号」の打ち上げ成功。当面の運用は、8号のバックアップに当たるとか。
アメリカ大統領選。クリントン候補を猛追するトランプ候補

山本農林大臣。高知2区。「JAの方々」発言も放送したか、NHK
小池都知事の「政経塾」で橋下徹氏が講演とか。「土人発言擁護」の松井府知事の進言?

TPPの議論、国会は何を議論し、決定しているのだろう?

国会での審議を見ていた人はいますか? 国会での議論を理解した人はいますか? TPPによって日本の経済がどう変化するのか、説明できる人はいますか?

衆議院本会議でのTPPの採決、「何が採決されるのか」理解している人はいますか? 採決されることによって国内の法律の、どれがどれだけ変わるのか、説明できる人はいますか?

私たちの国会は、私たちの衆議院本会議は、何を決定しようとしているのか、理解している人はいますか?  民進党は「何の採決に同意」したのか、説明できる人はいますか? 「TPPの全て」を知っていて解説できる民間人はいますか?

これまでの国会の議論で、「本会議での採決に納得する」と言える人はどれだけいるのだろう?

未来を「発見」する(曖昧に)

「このままではいけない」
誰もが、そう考えているような気がする。確かにそういう意見も聞いたり読んだりする。
しかし、ならばどうするか、何を変えるか、何を始め、何を止めれば良いのか。

未来は混沌として、ソーシャルネットではあることないことが乱れ飛ぶ。「確からしいこと」は確かなことではなく、「こんな酷いこと」は、よくよく確かめると事の様相が違うものだったりする。

おそらく「社会は成長する」という、これまで確かだったことは不確定になり、社会的な価値観が個人の中で、地域の中で、国の中で流動する時代は、今しばらく続くだろう。そうとしか思えない、社会の動きは続いていくような気がする。

そんな社会の中で、社会を構成する私たちは、自分たちの「社会の見方」を変更し、「社会との関わり方」を変更し、それによって「社会の進む方向」を変更する必要を強く感じながら、「ならばどうする?」という質問の前に立ちすくむ。

答えは簡単で「できることをする」しかない。個人にできるのは、それだけだ。
ここは割り切るしかない。日本の社会を概観して「やらなければならないこと」「やるべきこと」「やったほうがいいこと」がどれだけ山積していても、ひとりの個人にできることは限られている。すごく限られている、と言っていい。

現在、日本社会の鳥瞰図は大きく変化しようとしている、と感じている。
そこでは「社会の見方」が変化し、「社会との関わり方」が必然的に変化していく。極度の少子高齢化、経済格差・情報格差の拡大、社会基盤の分断と崩壊、解消できない対立感情。
個人の考える「みんな」の範囲は事あるごとに縮小し、「仲間」は両手で数えられるほどに減少し、逆に「日本人は」という括りで語られる言説は全体主義的になり、国家主義的になる。

実は「全体主義」や「国家主義」は、価値観の流動化する社会の中で生きるには「楽な生き方」なのかもしれない、と思ったりもする。自分で考え、自分で悩む必要はなく、誰かの考えに流され、誰かの怒りに共鳴し、誰かの言説にただ乗りするのは。それはとても「楽な生き方」なのだろうな、と思う。

でも、それではいけない、と同時に思ったりもするのである。
「社会の見方」が変化し、「社会との関わり方」が変化する状況の中では、自分で考えて自分で判断し、自分の人生を自分で選び取る必要がある。そういう「自分の人生の基礎」を固めて置かないと、他人の言説、他人の怒り、他人の考えにいいように振り回されてしまうようになってしまうのではないか。

流動化する社会を泳ぎ、溺れずに未来に辿り着くには、誰も見ようとしない「未来の社会」を「発見する、あるいは発明する」必要があるのではないか。
それは、個人ではできないことなのかもしれないが、その僅かな欠片でも手に入れられたら、「未来に対する希望」を見つけられるのではないか。

そんなことをふと考えたりする。

曖昧ですんません。

低空飛行中

どうも、参院選以後、テンションが下がり気味。

参院選の時は、政治に対するコミットメントは、国民の一人として必要なことだと思い、いろいろ文章を書き連ねてきましたが、その後の都知事選でテンションが下がってしまったようで。

参院選の結果を受けての様々な言説と都知事選への動きが重なったことで、都知事選に向けて意識を集中できなかったというのもあるのですが、さらに小池百合子氏のフライング立候補自民党本部、都議連とのごたごた、野党統一候補への動きと、独自に立候補を表明しては取り消した数々の候補者と、突如湧いて出てきた、という印象しかなかった野党統一候補

都知事選の公示日には「どうしたものやら」という気分になっていて、これではいけない、と思いつつもテンションは上がらず。

ひとつには、前知事の辞任を受けての選挙であり、選挙の準備が参院選と重なったことにより、都政の課題についての議論があまり深まらなかったように見えたこと。前知事の「政治と金」についての追求が都知事に就いていた期間ではない件にも拡がったことで、「都知事としての資質を問う問題なのか」どうかが曖昧になってしまったような印象を受けたこと。
有力候補とされた候補者に、都政に対する具体的な政策があまりはっきりと見えなかったこと。さらに、投票日直前まで具体的な政策を提示できなかった野党統一候補

「誰を、どういう基準で選べと?」と聞きたくなるような選挙戦になってしまったな、という感想だけが残り、そのことでブログに何か残すような材料も見つけられず、という状況で。

その意味では、都政の課題がどこにあって、どの分野にどんな問題を抱えているのか、ということを自覚的に認識していなかった自分、というのを改めて突きつけられたような気にもなったりして。

都知事選の結果は結果です。野党統一候補は都民に受け入れられなかった。かと言って、都民は自民党都議連の候補にも投票しなかった、と言うこともできます。与党も野党も、政党支部は得票を減らしている、ということは言えるのではないのでしょうか。その中で(自民党に党籍を置いたまま無所属扱いで立候補した)小池氏が票を得たことについて、しっかりと分析する必要があるのは野党でしょう。自民党は結果往来で済ませてしまうでしょうから。

与党の言説の劣化も目に余るものがありますが、野党の言説の劣化はそれよりさらに酷いものがある、とも感じたりしています。
代議員を選出する「選挙権」は持っているけれど、国政への関与のハードルが高い「ただの一個人」には、国政の民主主義を確かなものにしていくために何ができるのか、考えたほうがいいのだろうな、と思うのですが、問題はその「具体的な手段・方法・言葉」なのでしょう。

参院選を終えて

参院選が終わりました。投票に行かれた方、棄権された方、様々な感想を抱かれたかと思います。
 
個人的な感想では、野党共闘は善戦した、という印象を持っています。
議席数だけを見るならば、辛うじて土俵の俵の上で残った、という結果でしょうか。
 
もとより民進党にとっては厳しい選挙戦であっただろうし、もともと6年前の大量の議席を維持することは支持率から見てとても困難なことは判り切っていましたし、ずるずると後退する可能性も高かったのではないか、と思っていました。
 
確定した議席では、自民党単独で辛うじて議席の半数、公明党とその他の改憲勢力を合わせて3分の2、というところでしょうか。自民党などは無所属議員の追加公認とか行なって議席を増やす策に出てくるかもしれませんが。
 
憲法改正についてはこんな解説記事もあります。
 
この記事、憲法改正の手続き、国民投票についても参考になることが多く記されています。ご参考までに。
 
この記事によると、報道などで「改憲4党」とひとまとめにされる「自民、公明、おおさか維新、日本のこころ」ですが、それぞれに憲法改正への態度や内容について違いがあり、この4党がひとつの「改憲案」に意見集約できるかどうかについては疑問があります。
 
国民にとっては、そうした「改憲案」についての各党の議論をオープンに、国民に見える形でやってもらったほうが、国民の憲法について、憲法改正について理解しやすくなるのではないか、と思ったりするので、ぜひ憲法の議論についてはオープンにやっていって欲しい、と思います。
というか、憲法の議論は「国民がどのような形で国家権力を縛っていくか」という議論になるはず(憲法の性格から)なので、「必ず国民からの目線で」議論する必要があると思います。
そこが他の「法律」との大きな違いでもあり、憲法憲法であるゆえんでもあるのですから。
 
憲法に関連することであれば、今後注視していかなくてはならないのは、「緊急事態条項」についてでしょう。複数の憲法学者が、自民党草案の「危険性」を指摘しています。これについてはまだまだハードルが高そうですが、これまでの安倍自民党のやり方を見ていると、どこかで無理矢理ねじ込んでくる可能性も、ないとは言えないでしょう。
 
もちろん、政治課題は他にもいくらでもあります。
そうした課題について、常日頃から国民目線でいろいろ論議、談義をしていくことは、政治を身近な問題として(本当に身近な問題なので)考えられるようになる契機になるのかもしれません。
政治の話題が政局や選挙だけでは、日本の政治が国民に恩恵をもたらすものにはなりません。もっと国民は、日常的にああでもない、こうでもないと論議しながら、政治家に要求を上げていくことが必要なのでしょう。
 
今後も、折にふれてあれこれ考えていけたら、と思います。とりあえず、今夜はこの辺で。
 

有権者は「無力の王」である - 明日は選挙

有権者は「無力の王」である。または「無力」であるがゆえに、「王」のような態度で国政を見渡し、国民の意見を国政に届けていく存在である。
…という言葉を思いついたが、ただの思いつきなのでスルーして下さい(笑)。

国民主権の民主主義国家において、国民は主権者であるわけだが、主権者であると言って個人が自分勝手に国政に介入することはできない。国政は「国民の代表者」としての「代議員」が担当し、国政による恩恵は国民が受け取る。

「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。」(憲法前文)

自分勝手な主張はいくらでもできるし、時には賛同者も現れたりするだろうが、個人または小集団の「勝手な主張」は、考えの違う個人や集団の反対に会って実現は不可能になる。
それぞれの個人が勝手な意見を披露し合うだけでは国家を上手く切り回すことはできない。なので、意見を集約し、それを代議員に託し、代議員による意見交換と議論、異なる意見の磨り合わせをおこなって国家を上手く切り回すための方針を決定し、実行していくことになる。

その代議員を選ぶ方式として、日本を始め多くの民主主義国家では「選挙」という方式を採用している。国政ならば全国民の中から選挙権を持つ「有権者」が投票し、候補者の中から多数の票を得た者が「代議員」として選出される。

たかが一票、されど一票。

一億人の有権者が投票する(またはしない)国政選挙において、「一票」というのはとても小さく感じるかもしれない。それは地方選挙においても数万、数十万分の一という数字は小さい、と感じる人も多いのかもしれない。

しかし自分の考えが自分勝手なものではなく、他人にも通じるものだと感じるのなら、同じか似たような考えの人は、必ず他にもいるし、ひとつの課題に対する国政の選択肢というのは無数にあるわけでもない。
だとしたら、一つの課題について同じ選択肢を選ぶ有権者はそれこそ、有権者全体の何割かはいることになる。自分がどれかを選択をするとしたら、同じ選択をする人は必ずいるし、それも相当数いることになる。

日本の選挙は「政策を選択する」選挙ではなく、「候補者を選択する」選挙なので、政策課題を考えるのとは少し違うかもしれないが。

それでも、誰かひとりが「今回は選挙に行ってやろうか」と思った時、同じ思いを抱く人は国内のどこかにいるだろうし、そうした人々は全国規模で考えれば、投票率を1%くらいは上げ下げするレベルに達するのではないか、とか思ったり(妄想したり)する。

選挙の制度について考えることも必要なのかもしれないが、現状では有権者が自分の持つ一票を選挙に活かすには、候補者の誰か(または政党)の名前を書き込むしかない。そのルールに従って一票を投じることで、その結果は厳密な数字として結果に現れる。

たかが一票。無力に見える一票。
されど、自分の一票。自分の意見を表明する、自分に与えられた権利。それは、使ってなんぼの国民の権利でもある。

明日は選挙。行きますよ、もちろん。