乱反射の光跡 in hatenablog

なみへいのブログです。hatenablogヴァージョン。

誰のための行政・内閣なのか

どう考えても、今の内閣は暴走している、と考えざるを得ない。

森友学園、そして加計学園の問題は、忖度があったかどうかでも、違法性がなかったかどうかでもない。
行政が、何のために仕事をしているか。原則的には「主権者である国民のため」である、ということを最初に確認しておかなくてはならない。

「国会(立法府)」は、国政を動かすためのルール(法律)を審議し、決定する。国家予算についても、各年度の「法律」として決定される。「内閣(行政府)」は、決定された法律に基づいて政策を策定し、予算を執行する。
こうした一連の手続きにおいては、基本的に「全てが国民に説明されるべき」事項であり、それは国会の審議の中で、国民に対して説明される必要がある。

行政府のトップリーダーである総理大臣は、単に事務的に仕事をするだけでなく「主権者である国民のため」に決断し、トップダウンの指示を下すことも当然あるだろうと思う。

それはしかし「主権者である国民のため」の指示であり、トップダウンの指示を下した経緯や方針については、国民に説明し、理解を得る必要があるだろう。その際、国民の多数が理解できないとしても、トップはその信念を訴えて指示を貫徹する努力をすればいいし、その姿勢が認められるものであれば、その指示は国民から支持されるものになりうるだろう。

そのようにして、どこにどれだけ税金が注ぎ込まれ、その資金によって国内の状況がどのように変わったのか、全体の方針から個々の具体的な政策に至るまで、全ては主権者である国民に説明する必要があり、国民は政府に説明を求める権利があり、政府は国民に説明する義務を負う。

そのためには、国会はもとより様々な審議や会議、打ち合わせに至るまで「行政での審議の経緯、決定の過程」は、記録に残して主権者である国民に報告し、後々の検証の要求にも答えられるようにするためにも一定期間は残しておく必要があるものである。またそのような運用規則も定められている。

今の政権が、根本的に批判されなければならない理由は、明確にある。民主主義国家において、「国会での説明を拒否する行政責任者」、「主権者への説明を何もしない責任者」、「主権者への説明のための記録すら恣意的に破棄する行政」というのは、民主主義国家としての責任者が果たすべき責務の放棄であり、民主的制度、民主的手続きの無視・放棄であり、民主主義を破壊する姿勢にしか見えない。

だからこそ、この問題については、主権者である国民に対して、納得できる説明を行政府に求めなければならないのではないか、と思う。内閣による基本方針の策定から、施策のそれぞれの細部に渡る議論、審議、決定の内容とその過程、そして施策実行の経緯から結果の報告まで、政府の行動の全ては「主権者である国民」に報告される必要がある。そして、その報告の最終的評価を下すのは、主権者である国民である。

今の政権が、こうした原則に基づいて、国会の審議や記者会見などを通じて「主権者である国民」への説明を尽くす努力をしているだろうか。

個人的な感触として言うなら、国会の審議で繰り返される「問題ないと考える」という答弁には、閣僚と閣僚に同調する官僚の答弁のみに終始し、その裏付けとなる資料は一切出されることはない。
「資料はない」「既に廃棄された」「確認できない」「確認はしない」「調査はしない」と言う答弁を聞き、一枚も紙の資料が内閣から出てこないことを考え合わせると、保存された、あるいは破棄された資料には、閣僚の発言を覆すものしか存在しない、という理由しか思い浮かばないのだが。

 

 

天皇の譲位は特例法で決まるのか

天皇生前退位の特別法、衆議院を通過して、来週には参議院でも可決、成立しそうです。

世論としても、議員の中にも恒久法の必要性を主張する意見もまだ残っていて、特例法でこのまま成立させるには、まだまだ消化不良の印象があります。

政府・与党としては今後とも退位が問題になる度に特例法で対応する、という構えなのでしょうか。しかしそれでは、天皇の願いとは異なったものになってしまうのではないか、と思ってしまいます。

天皇が望んだのは、天皇家の存続と、それの日本国民にとっての位置付けを確かなものにすること、なのではないのかな、と僕自身は考えています。「象徴天皇」とは何なのか、その問いに必死で答えようとしてきた天皇の、「途中の答え」が昨年夏の「天皇陛下のお言葉」だったのではないか。

摂政による代替業務への否定的見解、老齢で天皇の公務を果たせない無念、昭和天皇の病床に伏せられてから崩御までの期間、その姿を見続けてきたこと、それらすべてを含んだ上での、「天皇のお言葉」であるはずです。

では、生前退位の「特例法」はそれらの天皇の考えを反映したものになっているでしょうか? そして「生前退位」を容認しようとする国民の意見を反映したものに、なっているのでしょうか?

果たして、今国会で審議されている「特例法案」が天皇の意思を反映し、国民世論に応えるものになっているかどうか、については考慮する必要がありそうに思うのですが。

さらに遡って考えるなら、「国民の統合の象徴としての天皇」とはどういうものなのか、国民の中で、国会で、コンセンサスが取れているのかどうか。そう考えると、「生前退位」の是非とか法律案とかの前に「国民統合の象徴としての天皇」とはどのような存在なのか、そのことについての、国民の意見をベースにした議論と、「象徴天皇」についての定義とはいかないまでも、ある程度の「概念形成」に対する国民レベルの「コンセンサス」は必要ではないのかな、と思ったりするのですが。

そうではないんでしょうか?
もしかしたら、国会や内閣ではなく、「天皇」と「国民」とがお互いの意見を交わしながら、「象徴天皇」の「定義」あるいは「意味付け」、「国政に対する位置付け」などを意見交換して、ある一定の理解を得て、「天皇」と「国民」の間にある程度の共通認識を持つ必要があるのではないのでしょうか?

昨年の「天皇陛下のお言葉」は、切にそれを望んでおられるようにも感じ取れるのだが。
政権中枢はそうでないとしても。

まとまらないまま、残しておく。

自衛権、そして自衛隊

あれこれ見ていたら、ハフィントンポストが「自衛権の(政府解釈の)変遷」を具体的な公文書を元に分かりやすく解説してくれていたので、ご参考までに。

http://www.huffingtonpost.jp/2015/07/15/japan-security-bills_n_7313158.html

日本がGHQ占領下での朝鮮戦争の勃発時、米軍は日本占領軍を朝鮮半島に送ることを余儀なくされ、薄くなった日本本土防衛を日本人にさせる方策を取った。しかし憲法によって軍隊の所持はできないため、苦肉の策として、警察(公安組織)の一部署として国土防衛のため「警察予備隊」を組織する必要があった。
この辺のことは「朝鮮戦争警察予備隊」と題された論文についてメモめいた文章を残している。


http://d.hatena.ne.jp/namihei_j/20150622


が、ここに置いたリンクは「防衛研究所」のサイト移転に伴い、以下のリンクに移動しているのでご注意を。

 

http://www.nids.mod.go.jp/publication/kiyo/pdf/bulletin_j8_3_02.pdf

 

こうした周辺環境や国内環境、更には米軍(とGHQ)の戦略的な都合もあって、なし崩し的な戦犯の開放と警察予備隊の強化が行われたことは、「自衛隊の起源」の問題として共有しておいたほうがいいのではないだろうか、と思う。

 

自衛隊の課題、問題点については、また考えてみる。

憲法記念日に思う

今年も、憲法記念日が過ぎました。全国のいたる所で「改憲」や「護憲」の集会が行われ、マスコミもさまざまな記事を国民に向けて配信したようです。(詳細に見ていないので、あれこれは言わないけど)

憲法記念日が制定されたのは憲法施行の翌年の7月(国民の休日に関する法律)。実際に憲法記念日が祝日となったのはその翌年(1949年)から、ということになる。今年は「日本国憲法施行70周年」だけど、「憲法記念日」としては69年目、ということになるのだと思う。どうでもいいことかもしれないが。

安倍首相が「2020年に向けての憲法改正」をぶち上げたようで。「自衛隊を合憲化する」との報道が流れているが、これはこれまでの政府見解を、「違憲性がある」という見解を修正したものなのかどうか。
以前からそう考えていたのなら、安倍首相は「違憲性の疑いがある」自衛隊に「駆けつけ警護」の任務を付与して南スーダンに派遣したわけで、そこに行政としての理念的整合性があるのか、安倍首相の真意をただす必要があるのではないか。
現行の法制度の中で、自衛隊は「合憲」なのか、「違憲性がある」のか。行政のトップが「合憲」な自衛隊を外国に派遣することと、「違憲性の疑い」を表明する武力部隊を外国に派遣することには、かなり大きな違いがあるのではないか。

自衛隊の合憲化」を主張するなら、そもそも戦後間もなくの「警察予備隊自衛隊の前身)」の創設から問われなければならない、と思うのだが。

自衛隊の成立経過は、どこかに書き残した記憶があるのだが。
今は頭が回らない。のちほど、できれば。

国会で議論してほしい、と国民が思っているのは、どんな問題だろう?

マスコミの世論調査、「支持する政党」を聞くと同時に「今の安倍政権を支持するか」を聞いたアンケートは、行われていたのだろうか? 「支持政党を聞く設問」に、現在・過去・未来という「時間に伴う意識変化」を問う質問はあっただろうか?

ということをふと思ったりした。「支持政党」を聞く質問の後に、「過去も好きだったか?」「今も好きか?」「未来も好きで居続けるか?」という質問を加えると、果たしてどういう結果が出るのかな? そういう質問をするマスコミは、いないのかな。


「今がどうなのか」「過去はどうだったのか」という議論は大事であるし、「起こったことはなるべく詳細に、事実に基いて」残しておくことが、未来のためにも有用な資料になることは間違いではないと思う。

さらに「今はどうなのか」という議論には、政治的な議論には「これからはどうするか」という議論に直結する。「今がこう」だから「未来もこう」とは限らない。未来は変化する。自分が変わらなくても、周囲、環境が変化する。社会環境は「やがて変化するもの」として認識する必要があり、政治的にもそれは(社会環境が変化を必然とする限り)変わらない。


ならば、どうするか?
「社会は変化する」ことを前提に、変化する社会の中で必然的に求められることを施策することが政治への要請になる。

政治・行政の議論の中で、その前提となっている「社会構造・社会現象」とは何か。それは、共通認識とされているのか?


社会は変化する。人間関係も変化する。地球を分割する自治組織(国家)の間の関係も、自治組織内部の状況も変化する。そういう「変化する周辺環境に対応する組織運営をどうするか」という議論を、国家も、準ずる自治組織も、地方自治体も、地域社会も、意識して行っているのだろうか?

自分は「個人」であり「地域社会の一員」であり、「国民のひとり」であると、どこまで意識で切っているのだろうか?

「森友学園問題」じゃなくて、「国有地不透明売却問題」ね


この問題が孕んでいる「行政の民主的運営の危機」の問題には、一部の人が気付いているが、本来は「民主的行政」を求める人々なら当然のように「解決を求める」問題なのだ、と思う。だから、何度でも蒸し返したいとか思ったりもする。


国有地は、言うまでもなく行政が税金を使って買い上げた土地であり、民間レベルの土地評価額にそぐわない価格で売り払われたのなら、それは税金を収める国民に説明がなされなければならない、のではないか。
そのための資料を破棄した、というのは税金を払った国民に対する説明の放棄どころか、税金の使いみちに対する疑念を払拭しようともしない態度として受け止めるしかない。


評価額の大幅な減額はどのような理由でなされたのか、撤去されたゴミは「産業廃棄物」として厳格に廃棄物処理の手順が施されたのか(そうなら処理の書類は何重にも残っているはず)、追加の廃棄物についても(各方面に)書類が残っているのではないか、書類は破棄した、現存しないと言い張る以上、だったら口頭での真実の証言(証人喚問)で明らかにすればいいだけの話なのに。


「国有地不透明売却問題」は、行政がしっかりと仕事をしているのか、特定の個人なり法人にだけ有利な裁定をしていないのか、特定法人への利益供与ではないのか、手続きは(公開しても)公正に行われているのか、という問題なのではないのかな。


これを「個別の案件」として片付けようとするなら、この疑惑の固有性を説明し、これまでも今後も似たような疑惑は生じないことを、政府は国民、国民に選ばれた代議員で構成する議会に説明する必要はあると思うし、行政府が国民の信任を得たいなら、行政府はそうするしかないはず、なのだが。


森友学園」と「財務省」「国土交通省」との取引は、国税(国有資産)を使った取引として公正で適性なものだったのか、まずはそこが問われなければいけない。それは、「今後、同じような案件で問題が生じたときにも、適応できるのか」という観点を含めて、だと思う。


繰り返し言っておくが、この問題は「行政が、国税を使って、国民に説明できる資産管理運用をしているのか」という問題である。これを放置すると、行政は「国民が許した」という判断をするかもしれない、問題である。それでいいのか? という問題なのではないか?

とりあえず


頻繁に更新したい、と思いつつ更新できないのは、自分が書かないから、という至極当然の理由に思い至ったので、出来る限り書いてみることにする。


最近、毎日の食事が「摂り過ぎ」らしいので、徐々に食事量を減らす試みを始める。
まずは炭水化物を減らす。といっても、元来心底からの「お米好き」であるので、米の量を減らすのは、自分にとっては「食べる楽しみvs健康管理」の葛藤に直結する課題になってしまう。かと言って米以外の炭水化物はかなり減らしている(つもり)なので、悩ましいところなのだが。

ふと思ったのが、これまで空腹を感じると仕事中に集中力が途切れるので、なるべく空腹を感じないような食べ方をしてきたな、ということ。過剰に食べることで、一日空腹を感じないようにすること。


あ、これを止めればいいのか、と最近(遅まきながら)気づいたりして(笑)。
という訳で、「空腹を感じる(仕事に支障のない範囲で)こと」を目標に、日々の食事量を調整しようかな、と。

ま、どこまで実現できるかは、自分の(あまりにも頼りない)意思の力による、のだけど(笑)。