乱反射の光跡 in hatenablog

なみへいのブログです。hatenablogヴァージョン。

北朝鮮のミサイルは本当に危機なのか?


今朝の北朝鮮弾道ミサイル発射、通勤電車の中でツイッターで知って少しびっくりしたのだが、通勤電車の中は静かで、ネットと現実の「距離感」みたいなものが、少しだけ垣間見れたような気がしてましたが。

ツイッターでも様々な指摘がある通り、日本の陸地を超える弾道ミサイルは、日本の陸地の上空ではPAC3の迎撃範囲を超える高空を飛び、それは「領土」と呼べないほどの高空(ISSより高いらしい)で、そんな代物から「どうやって国民と国土を守るのか」について、政府は「万全の対策」以上の具体的な方針を示せない、でいるようにしか見えない。


「Jアラート」が発令されたとのことだが、発令は6時2分、ミサイルの上空通過は6時6分、その間に、避難しようとした人々はどれほどのことができたのか、と思ったりもする。自覚があり、周到な用意があれば4分という時間は「とりあえず自分の身を守る」には充分な時間なのかも、と思う。弾道が正確に確認されていれば。
しかし、今回も(これまでもそうだったと思うが)ミサイルの弾道が公表されたのは、ミサイルが落下してから数時間後であり、政府の対応は「今、落ちてくるミサイル」には無力であることを露呈しているように見える。
もちろん政府の中枢ではミサイルの弾道をリアルタイムで掌握していた可能性はあるだろうが、その情報がまさに「リアルタイムで国民に知らされない」以上は、国民にとっては「どこに落ちるか分からないミサイルの前で右往左往する」自由しか与えられていない、ということは、国民が自覚しておく必要はあるのではないか、と思ったりもする。


「圧力」と唱え続ける安倍政権は、文在寅韓国大統領のように「対話の窓口」について言及することを、避けているのか、全くと言っていいほど口にしない。「対話」の試みについて、安倍政権はどれほどの可能性を探っているのか。
安倍政権は「北朝鮮との外交交渉」をどのように行っているのか、行っていないのか。それは「北朝鮮外交」においては、「国土防衛」と両輪で進めていかなくてはならない「外交課題」ではないのか。


外交交渉の結果報告もなしに(交渉の事実すらなしに)相手国の脅威だけを言い募るのは、国内に対するプロパガンダでしかなく、それは「外交」と呼べないのではないか、と危惧する夜。

なんだかんだ言いつつ


何も更新できていないな。
一つのテーマについて書こうとすると、事実関係の再確認とか、周辺の項目についても知識が必要となって調べ始めたりとか、挙句にテーマが一つに纏まらずに文章が雲散霧消してしまうとか、いろいろ自分の能力の欠陥があらわになってしまって文章が止まってしまう、という事態の繰り返しで、一向に纏まった文章を誰かに見て貰うこともできないままに、夏が過ぎて行く。


何にせよ、拙いながらも自分の頭の中を天日に晒すような真似をある程度はしていかないと、頭の中の思考が高温多湿の環境の中でズブズブになっていってしまうような気もするのだが、それを避けるためにできるのは、拙いながらも頭の中を吐き出すしかないのかな、とも思ったりする今日このごろ。


あまり身構えることなく、頭の中を垂れ流して「思考の新陳代謝」を促して行く必要もあるのかな、とも考えたりして。
腐り始めている(かもしれない)大脳皮質で、考えたりしてるなど。


オチはない。すんまそん。

「共謀罪」成立

共謀罪」が、あまりにも乱暴な国会運営の末に成立しました。
14日、金田法相の問責決議案を否決した参議院本会議は、法務委員会の審議を打ち切って「中間報告」を提出、直接本会議で可決する、という事態に。本会議の審議を経て、翌朝に採決、成立ということになりました。

圧倒的多数を誇る与党である自民党公明党がどうして、これほどまでの異常な運営を行ってまで法案成立を急いだのか、どのような理由があったのかは、国民に向かって説明されているのでしょうか?
普通に考えれば、日程的に不足なら会期を延長して審議を続け、可決まで持っていくのが普通で、多数を占めている与党ならば、無理なくできるはずであり、このような異常な会議運営を進めざるを得ない理由など、ないはずでは、と思ってしまうのですが。

http://moriyama-law.cocolog-nifty.com/machiben/2017/06/post-7333.html

弁護士の方のブログでは、国会法では、委員会を止めて中間報告を求めるには「特に必要がある」場合で、委員会の審査に期限を設けるか本会議で議決するには「特別な緊急性が認め」られる必要がある、と説明されています。

今回の採決は、国会法に違反する可能性があり、場合によっては「共謀罪」の成立に疑いが生じる可能性もあるのでは、という意見が示されています。

では、今回の「共謀罪」の本会議採決には、「特に必要がある」事由はどのようなもので、「特別な緊急性」としてどのような理由があったのか、本会議や委員会でどのような説明がされたのか、されなかったのか、が気になります。

手続きもさることながら、その内容についても疑問が山積しています

安倍首相の「この法案が成立しないと、オリンピックが開けないと言っても過言ではない」という答弁は、答弁の瞬間から破綻しているわけですし。
オリンピックの招致委員会で安倍首相自らが「日本は安全な国」とアピールしているばかりでなく、東京オリンピック決定時にも「オリンピック開催のために共謀罪の成立が必要」などという言及はされてなくて、共謀罪とオリンピックが無関係であることはいうまでもなく、安倍首相自身も「共謀罪が成立しなかったら、東京都にオリンピックの中止を求める」ことはしていませんし。

共謀罪」の論議では、「国際的な組織犯罪の防止に関する国際連合条約TOC条約)」を締結するため、との説明が政府からされていましたが、国連の担当者は「新たな法律の導入を正当化するために条約を利用してはならない」と発言してます。
さらに、「英国は長年TOC条約のメンバーだが、条約を締結するだけでは、テロの防止にはならない」とも語ってます。

http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2017060590070737.html

それに、そもそもTOC条約は「テロ対策の条約ではない」訳で、この法案を「テロ対策のため」という理屈もまた、破綻しています。

共謀罪」の国会審議が滞ったように見えるのは、法案審議の基礎となる「立法の根拠」となる事例が、政権側から一つも提示されなかったことが最大の理由だと思います。金田法相の答弁は、これまで聞いたことがないほど酷いものであり、政府の側すらも答弁させないようにしている有様で、採決の乱暴さもさることながら、金田法相、安倍首相の「質問に答えないで、別のことばかり長々と喋り続ける」答弁は、呆れるのを通り越して「日本語が通じてないのか?」と疑うばかりでした。


ただ、それが政権側の(内閣の)戦術(重要な質問には一切答えない)だとしたら、これほど国民の代表としての国会議員を、ひいては国民をバカにした答弁にしか思えず、国会という、国の運営の根幹を決める議会を軽視している、としか思えません。

国会をバカにして、国民をバカにする内閣(行政府)に対しては、国民としてはあらがうしかないのだろうな、と思ったりもする。

誰のための行政・内閣なのか

どう考えても、今の内閣は暴走している、と考えざるを得ない。

森友学園、そして加計学園の問題は、忖度があったかどうかでも、違法性がなかったかどうかでもない。
行政が、何のために仕事をしているか。原則的には「主権者である国民のため」である、ということを最初に確認しておかなくてはならない。

「国会(立法府)」は、国政を動かすためのルール(法律)を審議し、決定する。国家予算についても、各年度の「法律」として決定される。「内閣(行政府)」は、決定された法律に基づいて政策を策定し、予算を執行する。
こうした一連の手続きにおいては、基本的に「全てが国民に説明されるべき」事項であり、それは国会の審議の中で、国民に対して説明される必要がある。

行政府のトップリーダーである総理大臣は、単に事務的に仕事をするだけでなく「主権者である国民のため」に決断し、トップダウンの指示を下すことも当然あるだろうと思う。

それはしかし「主権者である国民のため」の指示であり、トップダウンの指示を下した経緯や方針については、国民に説明し、理解を得る必要があるだろう。その際、国民の多数が理解できないとしても、トップはその信念を訴えて指示を貫徹する努力をすればいいし、その姿勢が認められるものであれば、その指示は国民から支持されるものになりうるだろう。

そのようにして、どこにどれだけ税金が注ぎ込まれ、その資金によって国内の状況がどのように変わったのか、全体の方針から個々の具体的な政策に至るまで、全ては主権者である国民に説明する必要があり、国民は政府に説明を求める権利があり、政府は国民に説明する義務を負う。

そのためには、国会はもとより様々な審議や会議、打ち合わせに至るまで「行政での審議の経緯、決定の過程」は、記録に残して主権者である国民に報告し、後々の検証の要求にも答えられるようにするためにも一定期間は残しておく必要があるものである。またそのような運用規則も定められている。

今の政権が、根本的に批判されなければならない理由は、明確にある。民主主義国家において、「国会での説明を拒否する行政責任者」、「主権者への説明を何もしない責任者」、「主権者への説明のための記録すら恣意的に破棄する行政」というのは、民主主義国家としての責任者が果たすべき責務の放棄であり、民主的制度、民主的手続きの無視・放棄であり、民主主義を破壊する姿勢にしか見えない。

だからこそ、この問題については、主権者である国民に対して、納得できる説明を行政府に求めなければならないのではないか、と思う。内閣による基本方針の策定から、施策のそれぞれの細部に渡る議論、審議、決定の内容とその過程、そして施策実行の経緯から結果の報告まで、政府の行動の全ては「主権者である国民」に報告される必要がある。そして、その報告の最終的評価を下すのは、主権者である国民である。

今の政権が、こうした原則に基づいて、国会の審議や記者会見などを通じて「主権者である国民」への説明を尽くす努力をしているだろうか。

個人的な感触として言うなら、国会の審議で繰り返される「問題ないと考える」という答弁には、閣僚と閣僚に同調する官僚の答弁のみに終始し、その裏付けとなる資料は一切出されることはない。
「資料はない」「既に廃棄された」「確認できない」「確認はしない」「調査はしない」と言う答弁を聞き、一枚も紙の資料が内閣から出てこないことを考え合わせると、保存された、あるいは破棄された資料には、閣僚の発言を覆すものしか存在しない、という理由しか思い浮かばないのだが。

 

 

天皇の譲位は特例法で決まるのか

天皇生前退位の特別法、衆議院を通過して、来週には参議院でも可決、成立しそうです。

世論としても、議員の中にも恒久法の必要性を主張する意見もまだ残っていて、特例法でこのまま成立させるには、まだまだ消化不良の印象があります。

政府・与党としては今後とも退位が問題になる度に特例法で対応する、という構えなのでしょうか。しかしそれでは、天皇の願いとは異なったものになってしまうのではないか、と思ってしまいます。

天皇が望んだのは、天皇家の存続と、それの日本国民にとっての位置付けを確かなものにすること、なのではないのかな、と僕自身は考えています。「象徴天皇」とは何なのか、その問いに必死で答えようとしてきた天皇の、「途中の答え」が昨年夏の「天皇陛下のお言葉」だったのではないか。

摂政による代替業務への否定的見解、老齢で天皇の公務を果たせない無念、昭和天皇の病床に伏せられてから崩御までの期間、その姿を見続けてきたこと、それらすべてを含んだ上での、「天皇のお言葉」であるはずです。

では、生前退位の「特例法」はそれらの天皇の考えを反映したものになっているでしょうか? そして「生前退位」を容認しようとする国民の意見を反映したものに、なっているのでしょうか?

果たして、今国会で審議されている「特例法案」が天皇の意思を反映し、国民世論に応えるものになっているかどうか、については考慮する必要がありそうに思うのですが。

さらに遡って考えるなら、「国民の統合の象徴としての天皇」とはどういうものなのか、国民の中で、国会で、コンセンサスが取れているのかどうか。そう考えると、「生前退位」の是非とか法律案とかの前に「国民統合の象徴としての天皇」とはどのような存在なのか、そのことについての、国民の意見をベースにした議論と、「象徴天皇」についての定義とはいかないまでも、ある程度の「概念形成」に対する国民レベルの「コンセンサス」は必要ではないのかな、と思ったりするのですが。

そうではないんでしょうか?
もしかしたら、国会や内閣ではなく、「天皇」と「国民」とがお互いの意見を交わしながら、「象徴天皇」の「定義」あるいは「意味付け」、「国政に対する位置付け」などを意見交換して、ある一定の理解を得て、「天皇」と「国民」の間にある程度の共通認識を持つ必要があるのではないのでしょうか?

昨年の「天皇陛下のお言葉」は、切にそれを望んでおられるようにも感じ取れるのだが。
政権中枢はそうでないとしても。

まとまらないまま、残しておく。

自衛権、そして自衛隊

あれこれ見ていたら、ハフィントンポストが「自衛権の(政府解釈の)変遷」を具体的な公文書を元に分かりやすく解説してくれていたので、ご参考までに。

http://www.huffingtonpost.jp/2015/07/15/japan-security-bills_n_7313158.html

日本がGHQ占領下での朝鮮戦争の勃発時、米軍は日本占領軍を朝鮮半島に送ることを余儀なくされ、薄くなった日本本土防衛を日本人にさせる方策を取った。しかし憲法によって軍隊の所持はできないため、苦肉の策として、警察(公安組織)の一部署として国土防衛のため「警察予備隊」を組織する必要があった。
この辺のことは「朝鮮戦争警察予備隊」と題された論文についてメモめいた文章を残している。


http://d.hatena.ne.jp/namihei_j/20150622


が、ここに置いたリンクは「防衛研究所」のサイト移転に伴い、以下のリンクに移動しているのでご注意を。

 

http://www.nids.mod.go.jp/publication/kiyo/pdf/bulletin_j8_3_02.pdf

 

こうした周辺環境や国内環境、更には米軍(とGHQ)の戦略的な都合もあって、なし崩し的な戦犯の開放と警察予備隊の強化が行われたことは、「自衛隊の起源」の問題として共有しておいたほうがいいのではないだろうか、と思う。

 

自衛隊の課題、問題点については、また考えてみる。

憲法記念日に思う

今年も、憲法記念日が過ぎました。全国のいたる所で「改憲」や「護憲」の集会が行われ、マスコミもさまざまな記事を国民に向けて配信したようです。(詳細に見ていないので、あれこれは言わないけど)

憲法記念日が制定されたのは憲法施行の翌年の7月(国民の休日に関する法律)。実際に憲法記念日が祝日となったのはその翌年(1949年)から、ということになる。今年は「日本国憲法施行70周年」だけど、「憲法記念日」としては69年目、ということになるのだと思う。どうでもいいことかもしれないが。

安倍首相が「2020年に向けての憲法改正」をぶち上げたようで。「自衛隊を合憲化する」との報道が流れているが、これはこれまでの政府見解を、「違憲性がある」という見解を修正したものなのかどうか。
以前からそう考えていたのなら、安倍首相は「違憲性の疑いがある」自衛隊に「駆けつけ警護」の任務を付与して南スーダンに派遣したわけで、そこに行政としての理念的整合性があるのか、安倍首相の真意をただす必要があるのではないか。
現行の法制度の中で、自衛隊は「合憲」なのか、「違憲性がある」のか。行政のトップが「合憲」な自衛隊を外国に派遣することと、「違憲性の疑い」を表明する武力部隊を外国に派遣することには、かなり大きな違いがあるのではないか。

自衛隊の合憲化」を主張するなら、そもそも戦後間もなくの「警察予備隊自衛隊の前身)」の創設から問われなければならない、と思うのだが。

自衛隊の成立経過は、どこかに書き残した記憶があるのだが。
今は頭が回らない。のちほど、できれば。