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乱反射の光跡 in hatenablog

なみへいのブログです。hatenablogヴァージョン。

2012年 愛と多様性

あけましておめでとうございます。
毎年自分の(地味な)ホームページで、年頭に当たっての文章というものを公開しているのですが、今年はこちらへも公開してみます。
読みにくい文章かもしれませんが、ご容赦ください。
ちなみに1年前の文章はこちら。
 
 
では、今年の文章はこちらから。
 
〜〜〜〜〜
 
未曾有の時代。未曾有の災害、未曾有の政治経済状況。
 東日本大震災と大津波、そして東京電力福島第1原子力発電所の事故は、国内に文字通り「えぐるような傷」を残し、しかもその傷は10ヶ月になろうとしている現在でも血を流し続けている。出口は見えない。その「出口」というものがあるかどうかすら、はっきりと分からない。巷を流れていく報道や映像を見ながら僕は、思わず呟いてしまう。「未来(あした)は、どっちだ?」と(笑)。

 少子高齢化が急速に進み、人口減少時代に突入した日本にとって、その未来(あした)をどこに求めればよいのか。さまざまな人が考え、僕よりも優れた論考を行なっているのは確かだが、僕もまた拙いながらも、思考を重ねてみようかと思う。

 あらかじめ断っておくが、ここに書き残しておくものは、僕個人の思考と想像(あるいは妄想)の混交の結果としてあるものであり、何らかの論文としての価値を持つものではない(笑)、ということは、理解しておいて欲しい。

★ 東日本大震災。そこで見たもの。

 紛れもなく未曾有の大災害、それも複合型の災害となった、東日本大震災。大地震、そして大津波は、防災意識の高いはずの日本の人々の想像を遥かに超えて広範囲に、そして甚大な被害をもたらした。さらにそれに追い打ちをかけるように起きた、東京電力福島第一原子力発電所の事故。さらに関東地方の被災地を中心に、地面の液状化現象による被害が重なる。

 プレート境界に立地するために地震大国であり、季節風が上空を南下したり北上したりする緯度に位置するために台風や大雨の被害も多い日本。いわば「災害大国」である日本では、以前から「防災」への関心は高く、行政の対策も諸外国以上に綿密なものが用意されていると思う。しかしそれは「災害への備え」であって「今、起こっている災害」に対するものではない、のではないだろうか。

「防災計画」とは「想定された災害」に対するものであり、「想定された以上の災害」に対して備えている「計画」は、ない訳ではないのだろうが、少ないのではないか。さらに今回は複数の地震が短時間の間に発生し、被害状況をまとめるいとまもなく大津波が襲来している。

 前にもどこかで書いたことがあるが、行政が策定する「防災計画・対策」は、「今、起こっている災害」には無力である。行政が行なう「対策」は、現状を確認し、それに対する対応を決定し、指揮系統を通じて指示が送られる。もともとが、「時間的猶予があること」「現地と対策室の随時連絡が可能であること」「指揮系統が機能していること」が前提なのである。
 そこに、行政の限界がある。いや、もともと行政組織は「想定された」「限定された」災害に「一律に」対応するようにしかできていない、とも言えるだろう。近年取り上げられる「減災」もまた、「防災」の一環としてのものである。「予め防ぐ」のではなく「予め減らしておく」ための対策なのだから。

 いずれにしても、「今、起こっている災害」に対応できるのは、その災害に相対している当事者個人だけなのだ。「津波てんでんこ」である。「てんでんこ」とは「自分で勝手に」でもあるが、「個人で判断せよ」ということなのだ。
 そして、災害に直面した個人ができる唯一のことは「逃げる」ことしかないだろう。そう割り切ってしまえば、次に考えることは「どこへ? どうやって?」になるのではないか。

 答えは抽象的になるが、「自分の生活環境を、あらかじめよく把握しておくこと」になるだろうか、家であれ職場であれ、大きな災害に見舞われたとき、周囲の状況をどれだけ知っているかは、その人が助かるための大きな手掛かりになるはずだ。
 しかしそれも、人によって違うのだ。家で、職場で、あるいは通勤・通学などの交通機関で、それぞれの場所で災害に遭遇した場合、どう決断して、どう行動するか。判断は、個人で行なうしかない。そのためには、その個人の中に情報を蓄えておく必要がある。のではないだろうか、と思っている。

 いわば個人によるリスク・マネージメント、ということになるのではないか。
 あくまでそれは「今、ここで」起こっている災害から自分を助けるための緊急的なものであり、失命の危険から時間的・空間的余裕が生まれれば、行政による救援や支援を頼みにすることもできるだろう。ただ、「今、目の前の危機」から自分を助けられるのは、自分しかいないのだということを、知っておくことは重要なのではないか、と思っている。

★ 行政の限界

 さらに今回の大震災で強く感じたのは、行政の限界としての「一律的な対策」であった。
 被災者が集まった避難所に、支援物資が届く。しかし「人数分に足りないから、配らない」という杓子定規な対応しかできなかったのも、現在の行政の限界、ではないのか。

 今回の大震災、被災地が非常に広範囲に渡ることと、それぞれの被災地の環境が異なっていること、さらには津波、原発事故という災害と事故の複合があり、その複合の度合いによって、各地に必要な支援がそれぞれ異なっていたこと、それに対応する行政が、そうした「それぞれ異なった支援要請」に、一律的にしか対応できなかったのではないか。
 しかも「緊急を要する支援」に対して「国の予算執行の手続き」を待たねばならないという、即応性の欠如も強く感じたのだが。この辺は、当事者でない僕には分からない部分もあるのだが。

 東電福島原発の事故によって、政府がそちらの対応に追われたのも確かではあるが、それにしても災害直後の「緊急性」を考えてみても、政府の「即応性」には疑問が残ってしまう。
 自衛隊の即応性は、目的が明確(人命救助)であることと指揮系統が確立されていることによって担保されている。それが政府の「緊急事態対応能力」にはなかった、ということなのかもしれない。

 大きな災害においては、より現場に近い方が状況が把握でき、対応も早くできる。それは確かなことだろう。ならば災害における「緊急対応」はなるべく小さなユニットで、早い決断と早い行動ができる体制が必要なのではないか。そうした小さなユニットでできることは、おそらく「災害から逃げる」ことぐらいしか出来ないだろうが、それでも構わないのではないか。
こんな言葉を聞いたことがある。

「最初の3分を生き延びたら、次の3時間を生き延びることを考える。3時間生き延びたら、3日生き延びることを考える。次は3週間、3ヶ月と順に考えていけば、生き延びる確率は高くなる」

 どこで聞いたのかも覚えていないし、この言葉通りかどうかも定かではないが、論旨はこのようだったと覚えている。

「3分を生き延びる」ためのユニットは、おそらく家族・近隣などに限られてしまうだろう。まずはそこで生き延びることが重要だろう。個人で行動するか、ある程度の人数で行動するか、環境と状況次第だが、まずは「災害から逃げる」こと。その一点が目的になるだろう。
「3時間を生き延びる」ためのユニットは、もう少し大きくなるかもしれない。集落単位とか、町内会とかの単位になるかもしれない。そこでの目的は数時間、出来れば十数時間を目安にした「当面の安全の確保」と、可能ならば「その後3日を凌ぐための準備」になるだろう。災害からさらに逃れるか、留まって救援を待つか、誰がいて、誰がいないのか、それはその後3日を凌ぐための「ライフラインと食料」を確保するための準備段階になるのではないか。
 その後の「3日を生き延びる」ためのユニットは、もっと大きなものになる。市区町村単位で(居場所は一カ所でなくても良い)住民の安全の確保と緊急を要する食料、ライフライン、医療体制の情報収集・緊急要請などが目的となるだろう。
「3週間」では都道府県あるいは地方自治体の連絡組織のような規模になるだろうか。災害の規模やその内容によっては、都道府県単位よりも即応性と柔軟性の高い組織単位が必要になるかもしれない。今回のように海岸沿いの地域と内陸部の被災状況の違い、また原発事故などのように、特定の災害をもたらす施設の事故などによって状況が変わってくるだろうからである。ここまでの時間的余裕があれば、行政組織による救援体制を組むことが出来るのではないか。

「3ヶ月」ともなると、これは完全に行政の役割になるだろう。そこでは、さまざまな被災者への支援、復旧・復興などへの取り組みは、それぞれの行政組織で考えていけばいいのではないか。
その時点で、それまでの超短期の対応・措置に間違いがあったとしても、それは事態が落ち着いた時点で修正すればいいのではないか、と思う。災害対応での超短期的な目的を「とりあえず生き延びること」と設定すれば、短期〜長期の目的は「生活・社会活動の再建」になってくる訳で、目的に応じて修正していけばいいのではないか、と思うのだが。

 例えば、ではあるが、こういう考えをしてみると、現在の「防災」に対する見方も変わってくるような気がする。「今、起こっている災害」に対応するには、時間的要素も重要なのではないか。堤防を作れば、あとは見ているだけ、という「防災対策」が本当にそこに住む住人のためになっているのか、何度でも、繰り返し検証することが必要なのではないだろうか。

 行政には、限界がある。その事は、もっと認識されていいのではないか、と思ったりもする。

★ 多様性、ということ

 そこで、新しい年を迎えて「これから」について思う時、思い浮かんだのが「多様性」というキーワードである。
 まあ僕などが足りない頭で考えられることなどたかが知れているが、行政については、上から(大枠から)考えて細部を決定していくのと同時に、現場から(住民から)立ち上げて上位機関との擦り合わせを行う作業も行なっていくことも重要ではないかと考える。地図上で考えた「防災計画」には、実際の現場での足回り、足や乗り物での移動が可能かどうかなどについての検証が必要だろうし、実際にその計画で「3分を生き延びる」ことが可能か、「3時間を生き延びる」ことが可能かを確かめてみる、という手もあるだろう。

 さらには行政レベルだけでなく、町内会や集落レベル、また近隣や個人レベルで考えてみれば、現実問題としての課題がいくつも出てくるだろうし、それはまた行政レベルではなく集落・町内会レベルで対策を取れるようにして、その予算を確保することも考えられる。

 平常時と比べて、緊急時には対応・対策にスピードが求められる。「巧遅より拙速」が求められる事態に対して、現在の行政がどれほどの対応能力を持ち、対策について深く考えているのか、今回の大震災で明らかになったことは多いのではないか。

 もちろん、上に述べたような考え方がベストなのかどうかも分からない。別の考え方で、別の方法が有効な場合もあるだろう。土地・地形によって、人の活動状態によって、災害の内容と程度によって、実際の対応・対策は柔軟に帰られる方がいいのではないか。

 もしかしたら、行政組織きの構造そのものも、多様性と柔軟性を持たせていった方が良かったりするのかもしれない。



「多様性」という考え方は、日本が本当に必要としている概念ではないか、と考えてみたりしているのだが。地域的多様性、経済的多様性、エネルギー供給の多様性、文化的多様性、精神的多様性……。
 多くの局面で「多様な状態」を作り出し、保持していくこと。様相を変えながら変化していく世界の中にあって、日本国内の「どこか」が、あるいは「誰かが、何かが」活性化し、日本を支えてくれるのなら、時が変わっても今度は別の「どこか、誰か、なにか」が活性化してくれれば良かったりするのではないか。

 行政の多様化以外にも、あれこれ考えてみたいことはあるのだが、現状は気力が尽きそうなので(笑)、その「あれこれ」については改めて考えてみたい、と思っている。考えられるかどうか、はまた別の問題として(笑)。

 何にせよ、2012年のテーマは「愛と多様性」、ということにしておこう(笑)。
 今年もよろしくお願いします。