乱反射の光跡 in hatenablog

なみへいのブログです。hatenablogヴァージョン。

有権者は「無力の王」である - 明日は選挙

有権者は「無力の王」である。または「無力」であるがゆえに、「王」のような態度で国政を見渡し、国民の意見を国政に届けていく存在である。
…という言葉を思いついたが、ただの思いつきなのでスルーして下さい(笑)。

国民主権の民主主義国家において、国民は主権者であるわけだが、主権者であると言って個人が自分勝手に国政に介入することはできない。国政は「国民の代表者」としての「代議員」が担当し、国政による恩恵は国民が受け取る。

「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。」(憲法前文)

自分勝手な主張はいくらでもできるし、時には賛同者も現れたりするだろうが、個人または小集団の「勝手な主張」は、考えの違う個人や集団の反対に会って実現は不可能になる。
それぞれの個人が勝手な意見を披露し合うだけでは国家を上手く切り回すことはできない。なので、意見を集約し、それを代議員に託し、代議員による意見交換と議論、異なる意見の磨り合わせをおこなって国家を上手く切り回すための方針を決定し、実行していくことになる。

その代議員を選ぶ方式として、日本を始め多くの民主主義国家では「選挙」という方式を採用している。国政ならば全国民の中から選挙権を持つ「有権者」が投票し、候補者の中から多数の票を得た者が「代議員」として選出される。

たかが一票、されど一票。

一億人の有権者が投票する(またはしない)国政選挙において、「一票」というのはとても小さく感じるかもしれない。それは地方選挙においても数万、数十万分の一という数字は小さい、と感じる人も多いのかもしれない。

しかし自分の考えが自分勝手なものではなく、他人にも通じるものだと感じるのなら、同じか似たような考えの人は、必ず他にもいるし、ひとつの課題に対する国政の選択肢というのは無数にあるわけでもない。
だとしたら、一つの課題について同じ選択肢を選ぶ有権者はそれこそ、有権者全体の何割かはいることになる。自分がどれかを選択をするとしたら、同じ選択をする人は必ずいるし、それも相当数いることになる。

日本の選挙は「政策を選択する」選挙ではなく、「候補者を選択する」選挙なので、政策課題を考えるのとは少し違うかもしれないが。

それでも、誰かひとりが「今回は選挙に行ってやろうか」と思った時、同じ思いを抱く人は国内のどこかにいるだろうし、そうした人々は全国規模で考えれば、投票率を1%くらいは上げ下げするレベルに達するのではないか、とか思ったり(妄想したり)する。

選挙の制度について考えることも必要なのかもしれないが、現状では有権者が自分の持つ一票を選挙に活かすには、候補者の誰か(または政党)の名前を書き込むしかない。そのルールに従って一票を投じることで、その結果は厳密な数字として結果に現れる。

たかが一票。無力に見える一票。
されど、自分の一票。自分の意見を表明する、自分に与えられた権利。それは、使ってなんぼの国民の権利でもある。

明日は選挙。行きますよ、もちろん。