乱反射の光跡 in hatenablog

なみへいのブログです。hatenablogヴァージョン。

選挙をすること、選挙に参加すること

衆議院総選挙の報道は「誰が勝つか」とか「どの政党がどれだけの議席を」とかについての「政局」報道は活発だが、それだけではない、「政策決定の選挙でもある」ということを、投票する国民の立場としては自覚する必要があるのではないか、と思っている。
日本国の主権者として、「どの政党に、誰に、どの政党の議員に」国政に対しての意見表明をしてもらいたいのか、を選ぶ選挙でもあると思っている。

 

しかしながら、どの選挙区で、どの地域で選ばれた代議員であっても、ひとりで自分の主張した政策を実現できるわけだはない。共通する政策を主張する政党、議員グループと協力して政策実現への努力をする必要がある、そうでないと、自分が主張した政策を実現することはできない。

国政への国民の意見集約は、幾重にも重なる意思決定手続きを経て行われる。それはしょうがなく必要な手続きで、逆の言い方をすれば「幾重にも重なる意思決定手続きを経てこそ、国民の民意の反映が国政の政策になる」ということなのではないのだろうか。
「人間かまくら」を作って、速記録にも残せない採決で成立した「安保法制」、専門委員会での採決をすっ飛ばして突然本会議で採血された「共謀罪」。これらは「国民の信託を受けて」なされたことなのか、国民それぞれが判断することだと思うが、「そこに自分の意見は反映されているか」と見返してみることも必要だろう。これは主権者としての責任なのではないか。

 

「選挙」はひとつの節目で、国家行政、国家運営の議論は選挙後も続く、主権者としての国民の間で。というか、続けるのが主権者としての国民の仕事である、のだろうと思う。

それは「政治談義を日常化する」という、「主権者としての当然のあり方」でもあるのではないか。自分が受け取る給与明細や、店で受け取るレシートに記される「税額」や「控除額」、「保険料」は全て、選挙によって成立した国会が選んだ「総理大臣とその行政府」が決断したことなのだから。

 

不満があれば、いつでもNoが言える。それが「主権者としての仕事」ではないか、と思う。
民主主義の国の主権者として。