乱反射の光跡 in hatenablog

なみへいのブログです。hatenablogヴァージョン。

公文書、立法府、行政府

内閣が管理・統括する行政府に、次から次へと問題が発生する、というのは、省庁内の問題なのか、省庁を統括する内閣の問題なのか、それとも両方の問題なのか。

「公文書」というのは、日本政府がどんな課題に取り組み、どんな議論を積み重ねて、どんな政策を起案し、どのように実行したのかを、記録として残すための文書です。
その文書は政府によって保管され、後世の人々のための「歴史資料」となるものです。後世の人が、21世紀初期の国政の状況がどうだったのか、どんな課題があって、当時の政府がどのように対処したのか、後世の主権者に伝えるためのものであり、未来の国民が、過去を反省し、未来に活かすための資料でもあります。

その文書が「公文書」と呼ばれる以上、それは後世の国民だけではなく、全世界に対して「この文書に書かれている内容は、公式文書として偽りのものではないことを、国家政府として保証する」と宣言している、ということです。
その「公文書」が偽りであった場合、どういう経緯で偽りの文書が「公文書」として残されたのか、どういう理由で偽りの文書が「公文書」とされたのか、それは主権者に明らかにされなければならないし、同じような失態を起こさないために、どのような対策を取るのか。

行政府(内閣)は、立法府(国会)が議論を重ねた上で成立させた法律を施行する「行政(政を行う)組織」です。内閣の「行政行為」は、法律に則ったものであるかどうかを、常に国会によって検証されます。
問題なく執行されている行政の行為は問題にされませんが、国会が決めた法律に従わないような行政行為は、必然的に国会の審議に上げられ、その正当性を国会で議論して審議されることになるわけです。

行政府(内閣)は、立法府(国会)に対して「どのような問題点があって、どのような理由で、どのような経緯を経て、このような対処を行なったか」を、説明する責任があります。
国民が選んだ国会議員が、内閣の最高責任者である総理大臣を選び、その総理大臣が国務大臣を選任し、行政官庁(各省庁)を管理・監督し、正当な行政活動を行わせる。それが議員であり行政省庁の最高責任者である行政責任者(内閣・大臣)の仕事です。

財務省の公文書改ざん問題」は、こうした文脈の中に置かれた問題です。「公文書を書き換える」には、国民に選ばれた国会議員、ひいては議員を選んだ国民に「説明する必要がある」わけです。それは自分勝手な説明で終える訳にはいけません。国民が「ああ、そういう理由と経緯で、こういう対処がされたんだ」と理解することが必要であり、行政府(内閣)は国民の理解を得るまで説明をする必要があります。

日本の国の主権者は国民であり、行政(内閣)も立法(国会)も司法(裁判所)も、主権者である国民への説明を尽くし、理解を得る努力を尽くす責任があります。国政の三権は、「主権者である国民の主権を信託されている」権力である、のですから。

「委任」ではなく「信託」である、ということ。「全部任せる」のではなく「今は信用して、託している」状態であること。政権ができるのは、国民の疑問に対して説明を尽くすか、説明できないなら、受けた「信託」を返上する(辞職する)か、ではないのだろうか。

国民に、説明を尽くすことができない内閣は、説明を避けようとする内閣は、「国民の信託を受けた」責任を放棄している、としか受け止められないのだが。