乱反射の光跡 in hatenablog

なみへいのブログです。hatenablogヴァージョン。

とりあえず新年の挨拶と、決算報告を読む意味

あけましておめでとうございます。


今年もゆっくり、マイペースで行こうと思っています。と言っても、「自分のペースを守らないと、継続できない」からなのですが。

 

昨年の後半は、ずっと政府の決算書と睨めっこしていたような気がしますが(笑)、途中で挫折しそうになりながらも、時に項目と金額を見ていると、「おや?」と思うような項目に突き当たったり、予算額と乖離した決算額を計上した項目もあったり、なんとか最後まで興味を持ち続けられたことは、意外と面白い経験でもあったように思います。

なぜかマスコミは「予算」ばかりを注目し、毎年「総額がどうの、防衛費がどうの、社会保障費がどうの、国の借金がどうの」と繰り返し報道するのですが、「決算」についての報道にはほとんど触れることなく、個人的には、どこかそれを不満に感じていたことに、決算書を読みながら気づきました。

「予算」とは「次の年度はこうやるぞ」という話であり、結果的にそれがどうなったか、とは別の(視点の違う)問題です。「こうやるぞ」が「どうだったか、どうなったか」、それを確かめるためには、(年度が)終わった後の検証が欠かせないのでは、と思うのですが。

もちろん決算書についても、政府から国会に提出され、常設の委員会で議論され、最終的に本会議で可決されて成立する国会の議案のひとつです。
それが重要なニュースにならないのは、国家予算が「当年度の決算をする前に、来年度の予算を決定しなければならない」ため、決算についての議論、評価が次年度の予算に反映されず、それ以降にずれてしまうこと、そのために「予算編成作業に用いるデータとして有効に活用されない」こと、年度が変われば行政は「その年度の予算執行」を行いながら、その予算執行中に出される決算報告を吟味し、評価する必要が出てくるわけで、予算執行中に前年度の決算の議論と評価を報告されても、「今さらそれを言われても」ということになってしまうから、ということもあるのでは、と思っています。

 

国家の行政を預かる行政の中枢においては、日々の予算執行を行う中で、過去の予算執行についてあれこれ言われるのは、業務の妨害のように感じるのかも知れません。
でも、国民のひとりとして、「自分の支払った税金が、どこに振り分けられるのか」が気になるのと同時に、「実際に、どこに振り分けられたのか」も知りたい、ということも関心がありました。
そんな関心が、「決算書を読む」という行為を持続させたのだと、今から振り返って、思ったりします。

 

予算が、何がどれだけ増え、何がどれだけ減り、それで何が変化するのかを読み解く上で重要な「国政の情報」であるのは、確かだと思います。
でも、それと同様に「その予算は適正に使われたか、予算と決算に大きな違いが生じたのはなぜか、そこには予算策定の議論に瑕疵はないのか、予算執行上の問題はないのか、国家の収入の配分の結果について、見直す余地はないのか、についてのチェックをすることも、大事なことなのではないか、と思います。

 

そんなことを考えながら、無味乾燥に見える決算書を読んできました。「どう使われる(ことになっている)か」を示す予算、と「実際にどう使われたか」を示す決算は、国民にとって両方とも「重要な国政の報告書」であるのではないか、と思うので。

2016(平成28)年度の決算の報告書では、結果的な歳入額は103兆円、歳出額は98兆円。
予算計上の段階では、収入は補正予算合わせて100兆円。歳出予算は103兆円。
算額を見ると、歳入と歳出の間に6兆円余りの「使用されなかった」資金が残り、4.7兆円が次年度に繰り越さっれ、1.5兆円が不用額として計上されています。
http://namiheijodee.hatenablog.com/entry/2018/07/01/193304

6兆円も使い切れないお金があるのなら、それを国民のために振り分けられなかったのか、それはどうしてなのか。
そういうことを考える上でも、「決算を読む」ことは必要ではないかと思ったりするのですが、誰かやってくれないかな、と思っても、誰もやってくれなかったので(笑)。

 

そしてこれは、何年か追いかけないと実態が見えてこないものでもあると思います。配分された国民の税金、借金が何に使われているのか、その使われ方でいいのか。

決算書は、(他の政治・行政課題と同じく)奥が深そうです。