乱反射の光跡 in hatenablog

なみへいのブログです。hatenablogヴァージョン。

国会・選挙・投票

国政選挙、衆議院議員総選挙が、近づいてきました。

ついつい、日々の雑事に追われているうちに、選挙の告示日がやってきてしまい、何をどう考えればいいのか、あれこれ迷っているうちに投票日を迎えてしまいます。

本来ならば、国政にしても地方自治体にしても、日々の生活と結びついているものであり、常日頃から政治に対して関心を向けることは、国民として大事なことであり、主権者として必要なことなのだと思います。

なので、今回はできるだけ早くから、選挙の話、国政の話について、あれこれ書いておこうかな、と思っています。このブログが示すとおり、いつも飛び飛びでしか書けていないので、どこまでできるかわかりませんが。


国会の意味

「国政」とは「国の政治」であり、日本の場合、国政の根幹は、国権の最高機関である「国会」、行政組織である「内閣」、司法機関である「裁判所」による三権分立を基盤として、国の根幹、進むべき未来の方向を決定する機関を指し示します。

国会は広く日本全体の問題について、各地の選挙を経て国会議員となった「国民の代表」が国会において、国の根幹や方向性を決める法律について議論し、施行する法律を決定する場になります。
そこで交わされる議論は、「国民の代表者」同士の議論であり、なので国民に公開されるのは必然であり、当然のことです。

日本の場合は、同じ意見をもつ国会議員が集まり、政党を作って国会の議論に臨む、「政党政治」のスタイルを取っています。

「政党」は、同じ意見を持つ国会議員の集まり、ということになっていますが、国会で議論されるべき課題は、数多くあります。その全ての課題において、多くの国会議員が一致した意見を持つためには、いくつもの議論を積み重ねていくことになります。

そうやって、政党内での意見を取りまとめ、国会での議論において、他党との議論を重ねていくことになるわけです。

こうして議論を重ねて、制定される法律の根幹を定め、細部にまで目を配った上で、法律が「国民のために」成立するわけです。

人口1億人の国家であるならば、個人の生き方も、生活のスタイルも、思想も政治との向き合い方も1億通りあると思って間違いはないでしょう。
それを、約700人の国会議員の意見に集約し、さらに一つの法律に落とし込んでいく作業が、国会での審議、ということになります。

まあ、もちろん、現在の国会の状況が、こうした議論を積み重ねていく国会になっているか、と考えると、そうなっていないように思います。

「法律の制定の根拠はどこにあるか」
「法律の制定による、国民への利便はどこにあるか」
「法律の制定によって、社会にどのような影響があるか」
「法律の制定によって、国民の生活にどのような変化があるか」
議論に対する着目点はさまざまです。利便を受ける国民は誰か、不利益を被る国民は誰か。本来はそこまでの射程を保った議論を、国会で行うことによって、国民は国会の議論に信頼を寄せることができるのではないか、と思っています。

国民としては、こうした着目点や、自分なりの視点・論点に基づいて国会の議論に注目し、疑問点は国会議員や政党に正していく必要があると思います。

……とは言え。
現実には、国会の議論全てに、個人が目を通すことは難しく、国会の議論に着目するのは、自分と関係がある議題、自分の社会的活動に影響を与える議題に限られてくるでしょう。
個人が考えるべきこと、やらなければならないことは日常的に多く、国政や国会での議論に継続的に関心を持ち続けることは、かなり大変なことではあります。

それでも、1億人いる日本人のうち、0.1%でも日常的に国会、国政に興味を持つ人がいてくれるなら、単純計算で10万人がウォッチしていることになります。
その中で、自分と考え方が近い、政治的傾向が近い人というのは、何割かいると思います。そういう方の力を頼りにして、国政と国会についての情報を、できる限りにおいて継続的に手に入れることは、可能なのではないか、と思うのですが。

もちろん、国政の課題となっている問題全てを、一人の個人が考えることはなかなか難しく、おそらく不可能だと思います。
とりあえず、自分が関係してくる、自分が興味を持てる社会問題は何か、社会的課題は何か、そういう所から始めればいいと思います。
誰だって、国政と国会の議論の全てに目を通している人なんて、どこにもいない、と言っていいと思います。だから、いいのですよ。自分の興味から始めれば。

国政が担うことは、税制、経済政策、金融政策、世界情勢分析、外交戦略、福祉、教育、社会保障制度など、それこそ多岐に渡ります。
そして、それぞれの分野、問題点、課題について研究している専門家、研究者もそれなりにいます。彼らの発表する論文、書籍から、国政の問題点についての「視点」を得てもいいと思います。

興味の持てる課題から、少しずつ。


「選挙」という制度

「民主主義国家」において、主権者国民の国家運営に対する考えを反映する手続きとして、「選挙」によって代議員を選ぶ、という手続きは、かなり一般的に浸透している手続きではあるでしょう。

選挙制度には、直接選挙と間接選挙とがあります。
直接選挙は、主権者(国民、有権者)が直接、国政の議論の場に立つ代議員を選ぶ選挙になります。国政で言えば衆議院議員の総選挙、参議院議員通常選挙が、それに当たります。
地方で言えば、首長選挙、議会議員選挙なども直接選挙になります。

間接選挙は、主権者が直接候補者の中から一人を指名するのではなく、直接選挙で選ばれた代議士が、一定の役職者なりを選挙する、というスタイルになります。

アメリカの大統領選挙は、見かけ上(報道を見ていると)直接選挙のように見えますが、手続き的には間接選挙です。国民は選挙するのは、各州ごとに選ばれるや「選挙人」と呼ばれる人です。
選挙で選ばれた選挙人が、大統領を選ぶ選挙を行うことになります。
ただ、アメリカの場合は、選挙人の候補者が誰に投票するか、明らかにしているので、選挙人が選ばれた時点で、各大統領への得票は自動的に決まることになります。

日本の場合、総理大臣は国会で、国会議員によって選出されます。この場合も、国民が選んだ国会議員が総理大臣を選出する、間接選挙と言えるかもしれません。

日本の場合は、選ばれた国会議員のほとんどは政党に所属していますし、総理大臣の選挙においては、各議員は所属する政党のリーダーに投票することが通例となっています。
そのため、選挙で選ばれた議員が最も多い政党のリーダーが総理大臣となり、その政党が政権与党、となるわけです。

直接選挙では、有権者(国民の中で、選挙権を持つ者)が、当選させたい人を直接選んでします。

有権者が選ぶ代議員(国会議員、地方議会議員)は、当然さまざまな政策提案、公約を掲げて立候補し、選挙運動を行います。
有権者はその中で、各立候補者の主張を聞き比べ、自分の主張と近い、あるいはこの人に代議員の役割を担って欲しい、と思って投票するわけですが。

こうした、「代議員を選び、その代議員に国政を負託し、民主主義的運営を任せる」という制度は、国際的にも浸透している制度であり、発展中の国家によっては、「公正な民主的選挙」が国家の発展、安定の度合いを計る物差しにもなっています。

***

ただし、こういう「選挙制度」も、これで完全、という訳ではないことも、誰でも知っていることだと思います。

国民が求めるのは、国民のための「政策」であり、その「政策」を実現してくれる立候補者を選ぶ、というのが選挙の制度なのですが、代議員を目指す立候補者は、さまざまな政治課題について、いくつもの政策提案を示します。

例えばAという候補者は、社会保障についてはいい政策を提案しているが、経済政策については自分と合わないとか、Bという候補者は、経済政策や福祉政策には賛同できるが、外交政策については違う意見を持っているとか、そういう候補者が並ぶことが多かったりします。

この場合、こっちの政策はいいけれど、そっちの政策は頷けない、という意見を持っていても、それを選挙の投票という行動で候補者に伝えるのは困難です。

また、国政に出る全国的な政党は、その公約が総花的になってしまい、口当たりの良い言葉を並べていくと似たり寄ったりになってしまい、政党の特徴が選挙では埋もれてしまう、という傾向もありがちです。
それぞれの政党の主張を読み比べても、実際にどの政党を選択するか、どの候補者に投票するか、それだけでは選ぶのが難しく思えるのは、確かだと思います。

現在の選挙の場合、やはり候補者同士による立会演説会や、候補者同士の討論会という場が、必要なのだと思います。

候補者が、どれだけ口当たりのいい公約を並べ立てても、立場の違う者(この場合は別の候補者)と議論してみれば、ある政策についてどれだけ詳しく、深く考えているか、また重視している政策がどれで、軽視している政策がどれなのかが、明確になってきます。
そして、それぞれの候補者の語り口に、本人の思想、熱意は現れ、それは国民に直接伝わります。また、対立候補、一般市民との質疑応答を通して、候補者の誠実さ、真剣さは国民に伝わるのだと、思います。

現在の国会議員の中には、議論ができない議員が増えているのではないか、と感じますし、個人的にはそこに危機感を感じています。
議論ができない、ということは、国民の疑念に、行政の責任者がまともに答えられないことになります。
そして、行政責任者が国民の疑問に答えられない、ということなら、当然国民は行政責任者に対して、信頼できない、ということになります。
現在、政治、行政の場で起こっていることは、こうした形での国民の政治への信頼の失墜であり、政治不信による国民の落胆です。

そうした国民の政治不信は、選挙への国民参加の低下を招き、それを通じて政治・行政の劣化を招きます。
いや、すでに国政での議論は劣化を招いています。国民の信頼に足るよう、国政を立て直すのは、根本的には投票による国民の選挙への参加、なのではないかと思います。


投票の意味

民主主義的な国家運営を行うための、民主主義的な立法担当者、行政責任者を選ぶために、現在の選挙制度はあります。

選挙という民主的手続きにおいて、最も重要なのは、国民の投票行動です。

政治不信が投票率の低下を招くとか、投票へのモチベーションを削ぐとか、いろいろ言われていますが、結局のところは、国民が誰に投票したか、どの政党に投票したか、その結果が、国政のあり方を決定します。

投票しないことが政治不信の表明だとか、白紙の投票が政治不信の表明だとか、そういった意見も持っている人も少なからずいるでしょうが、結果に影響を与えるのは、投票数であり、厳密に言えば有効投票数です。

「投票しないという行動」が、政治不信の表明か、興味のなさを示すのか、他人の投票に結果を委ねる「白紙委任状」かは、投票結果からは判別がつきません。
投票されなかった有権者の意見は、候補者や政党に判断が委ねられるわけで、候補者や政党はおそらく自分に都合のよい解釈をするでしょうし、だとしたら候補者や当選者、政党に「批判的な意見表明」として受け取られることはないでしょう。

これは「選挙制度」が、「確実に有権者の意見を網羅的に掬い上げる制度」になっていないためで、この制度は、国民が自主的に民主制度を守ろうとする意志があることを前提として作られているから、でもあります。

この「選挙の制度・システム」についての問題点、課題も多くあるのですが、現状、有権者が投票することが、国民の意見、考えを国会、地方自治、行政機関に届ける大きな手段となっています。
もちろん、選挙への投票だけが国民の意見を国会・行政に届ける唯一の手段ではなく、国民はいつでも国会・行政に対して意見を言い、要望を出す権利はあります。

しかし、代議員当人にとっては、選挙で選ばれるかどうかが重要であり、その意味で、代議員にとって、一番重要視するのは、選挙とその対策、になってしまいます。
このことは、逆に言えば、選挙で勝ちさえすれば、そうして代議員の地位さえ手に入れられれば、それ以外のことは胸先三寸で軽視したり、無視したりすることも、代議員の立場からは可能だということです。

それをさせないためには、国民のなるべく多くが「投票という行動」を取ることが、必要になります。多くの国民が投票すればするほど、それによって選ばれる代議員は、国民の意見に敏感にならざるを得なくなります。
特に、無党派層と呼ばれる、特定の支持政党を持たない国民が投票を行えば、支援団体を持っていたりして一定の得票を計算できる政党の候補者でも、支援団体以外の国民を意識せざるを得なくなります。

投票率が低くなりますと、やはり支援団体に支援される政党の固定的な投票率が高くなり、選ばれる代議員は、支援してくれる団体の要求を重視することになります。

特定の支持政党を持たない国民が投票するほど、特定の支援団体に頼るだけの候補者は苦しくなり、国民の声をより聞かないと、当選できなくなります。

どれだけ多くの国民が、投票する行動に出るのか、それもまた、民主主義の質に影響を与えるでしょう。
当然、それは選挙に立候補する政治家たちの質にも影響を与えます。

支持政党を持たない層ほど、積極的に投票行動を取ることは、おそらくこの国の「政治的風土」を確実に変えると思います。
特定の支持層、特定の支援者ばかりを向いて代議員をやっていたら、とてもじゃないけど選挙に勝てない。そう政治家に思わせることが、この国の政治にとっての選挙の意味ではないか、国民が選挙で投票する意味ではないかと思います。

いろいろ、足らないところもありましょうが、今日はとりあえず、この辺で。

 

(脱稿:2021年9月13日)