乱反射の光跡 in hatenablog

なみへいのブログです。hatenablogヴァージョン。

思考の種子、流に差される棹、あるいは池に投げ込まれる小石


いろいろ考えなければ、などと勿体つけたことを言いながら、日々の生活に押し流されてしまうと思考の種も押し流されてしまう。とりあえず思いつくままに。

[政治]政治と金、というより政治家と金の問題。

そもそも「一人の政治家」はその支持者、支援団体、地縁血縁その他の支持を受けて「政治家」をやっているわけで、「一人の政治家」が、例えば日本国民の全ての意見を代弁するわけではない。
もちろん「政治家として政治に参加」するときは、その政治組織が代表する国家、地域全体を視野に収めながら発言し、自分の主張を述べることになるのだが、「一人の政治家」の意見としては、どんな意見でもありだと思う。


単純な思いつきで、それ以上のことはまだ考えていないので、制度的にどうとか、何も考えてないし、暴論じみた考えではありますが。


だとしたら、政治家への企業・団体献金は全て公開の上で認めたらどうか、とか思ってしまう。
もともと「一人の政治家」とは、ある限られた支持者と支援者の上に成り立っているのだから、いっそのことそれを公開した上で、堂々と金を受け取って政治活動をすればいいし、そういう制度にしたほうがいいのではないか、と思う。
「一人の政治家」はもともと「公明正大」でなくて良いし、もともと「一部の意見を代表する」にすぎないのだから、自分の立場を鮮明にして意見を言い、議論をすればいいのではないか。
「自分はこういう団体から献金を受けているから、こういう立場で、こういう意見を主張する」と言えばいいわけで、そうなれば、具体的な政策議論へも道が開けるように思うが。


いろいろ考えると難しくなるけど。
というか、このことは「政治家の、国民への態度、姿勢」と「国民の、政治家への態度、姿勢」に結びつく問題でもあったりするのだろうな、と思ったり。

軽減税率は「増税の一部とりやめ」で減税ではないですから

今日も今日とて、勉強がてら拙い文章を投下してみます。
 
 
「軽減税率の導入」について、あたかも国民負担が軽くなるようなイメージで語られることがあったりしますが、基本的には「増税」である、と認識しておいた方がいいと思います。
 
 
「軽減税率」については、12年前の論文ですが、税務大学校の教授による「食料品糖に対する軽減税率の導入問題」という論文が、国税庁のサイトに掲載されています。
 
これは要約ですが、論叢本文はページ下部のリンク(PDF)から読むことができます。
 
 
「消費税」については、以下のような特徴があります。
1.消費水準に応じて比例的に税負担を求めるため、水平的公平に資する。
2.所得に対する負担割合は、逆進的になる。(低所得ほど負担割合が大きくなる)
 
 
その中での食料品等への軽減税率の導入には、以下のような問題点が指摘されています。
1.相対的な負担割合を緩和する効果はありつつも、高所得者層にもより高額の軽減効果が及ぶため、低所得者層の負担軽減効果はさほど期待できない。
2.制度の簡素化や、経済活動の中立性に反する面がある。
3.客観的なデータに基づいて、対象商品を合理的な基準で選定することは困難。
4.食料品の譲渡と、飲食サービスとの区分をどこに取るかを判定するのが困難。
 
 
また、導入の際の制度面、執行面への影響も大きくなることが予想されます。
 
実際に、現実に売られているひとつひとつの商品の、どれに軽減税率が適用され、どれには適用されないのか。またその「線引き」がどれほど明確にできるのか、明確にできたとして、それが本当に「低所得者層の負担割合の軽減」になるのか、国民から見て理解できるものになるのかどうか。
 
商品を売る側にとっても、一律税率に比べて事務処理の負担は増大するでしょうし、そうした企業側の負担増は経費増に繋がるとしたら、その分の負担は誰が負うのでしょう? 国内の売買のシステムにとっての負担は、どれほどになるでしょう?
それに、消費税の部分増税に伴う、公官庁のシステム変更の費用はどれくらいになるのでしょう?
 
 
具体的に見ていけばいくほど、軽減税率の導入はシステムと事務処理の複雑化と負担増となり、それはつまり国の予算がそちらに充当されることで、社会保障費を圧迫するような事にならないか、そうした不安が生じてきます。
 
実際に12年前から指摘されていることは、現在でも問題点として指摘できることだと思いますし、すっきりとした解決策は、自分が見た限りどこにも見当たりません。知っている方がいるなら、教えてほしいものです。
 
 
どうも、軽減税率導入は、政治家が言っているほど「生活者への恩恵」にはならないのではないか。そう思えてなりません。
 

世界で起こっていること


11日、イラク首都バグダッドで車の爆発と銃乱射で死傷者が。さらに市場の近くで車の爆発、ハジャラ県でも市場の中で車が爆発するなど。ISのテロと見られている、とか。


さらに今日(12日)にはトルコのイスタンブールで爆発事件。自爆テロの可能性もあり(調査中)とのこと。


市場での爆発。記事には出てないけど、犠牲者は民間人としか考えられない。

デヴィッド・ボウイ死去


夕方にデヴィッド・ボウイ氏の訃報が飛び込んできてびっくり。

青森県震度5弱地震津波はなし。大きな被害もなし。六ケ所村も異常なし、とのこと。
震度5以上は久しぶりのような気が。


明日は寒くなるらしい。

2016年、日本の明日はどっちだろう?

 
あ、こちらではあけましておめでとう、ですな。
今年もよろしくお願い致します。
 
 
2016年、年初からの国会論議と同時に、夏の参議院通常選挙に向けての動きも始まってます。
参議院通常選挙までは約半年。さまざまな「政治的」発言や議論と共に、さまざまな「政局的」な発言や議論がこれまでと同様に、あるいはこれまでよりも数多く発信されるようになるのかもしれません。
 
 
そんな中で、政治家の発言、また政治家の発言を報道するマスコミの記事について考える時、一市民、一国民として考えを深めていき、政治家の行動や発言を、突きつめて深く考える必要が、国民の側にも要求される時期を迎えているようにも感じます。
 
 
具体的な課題は山積しています。
消費増税企業減税、軽減税率(部分据え置きで、増税には変わりないんですが)などの税制の問題、安保関連法制と軍事、日本の国際外交に関わるさまざまな問題、TPPに関しての関係国それぞれの動きと、日本国内での具体的な議論。その他、その他。
 
 
それらの課題を引っくるめて、日本は今後の国際社会の流れの中で、どのような位置を占め、どのような役割を担っていくのか。国内の社会はどのように変化していくのか、少し大仰かもしれませんが、そういうことも視界に入れていく必要があるのではないかな、と考えています。
将来、憲法改正が具体化に向かって進む時に、そうしたことをあらかじめ考えておくことは、議論を発展させるために必要でしょうし。
 
 
とは言え、仕事に追われながら、充分な時間もない中で、一人でどの程度考えられるかどうか。というか一人で考える問題じゃないし。
しかしながら、仕事に追われる一般市民(下層市民ですがw)として、日々の暮らしの中でどこまで考えられるものなのか、考えてみるのもいいか、とか思ってますが。
 
 
昨年末も、年末らしい雰囲気もないままに過ぎて新年を迎えることになりましたが、正月早々、正月らしくないことを考えながら年明けを迎えてしまいました。
 
 
本当なら、もうちょっと楽しいことを、もうちょっとたくさん考えられるようになりたいものですが(笑)。
 
 
 

あけまして

おめでとうございます。本年も、よろしくお願い致します。


正月三が日も今日で終わり。
今年はひとりで静かに過ごしました。


特に、ニュースと気象情報(あと、録画されてるアニメ)以外は、ほとんどテレビを見ることなく過ごしました。
静かに、と言いつつ、シーンとした部屋にいると、屋外も日頃に比べて静かだったりして、やはり音が欲しくなったりするものです。


というわけで、年末から三が日にかけて、夜のニュース以外は録画した番組を見ているか、そうでない時にはインターネットラジオポッドキャストを聞いて、時にはYouTubeを流しながら過ごしていました。これはこれで、「これもいいか」と思えるような時間の過ごし方ではないか、と。
聞く番組はいろいろ。ポッドキャストトーク番組を流しながら部屋の掃除をしてみたり、インターネットラジオで英語のラジオを流しながら、本を読んだり、ネットの記事を読んだり。ニュースもTwitterのタイムラインメインで。


そんな時間を過ごしてみましたが、「テレビではなくてラジオ、音声プログラム」を流す場合、「何か作業をしていて気になる情報が流れても、モニターの前に戻らなくてよい」というのは、(細かいことですが)自分の行動(やっている作業とか)を止めないですむ、ということなわけで、意外と自分の行動を抑制されなくてすむな、と感じてました。


テレビの場合、やはりプログラム(番組)自体が、「視聴者が画面の前にいること」を前提に作られていて、それもテレビの前から離れないような「引き」を作ってみたり、画面に注目するような流れを作ってみたり、そういう作り方をしていて、視聴する側もそういう「演出」を受け入れて観ているのではないか、と。

そういう視聴の仕方はもちろん「あり」なわけで、一家がひとつのテレビを囲んでいた時代から、個別にテレビを見るようになった時代を経て、テレビ以外のメディアが豊富に選べる時代になった今でも、そう変わっていないような気がします。


というわけで、「年末年始」という時間を、テレビの前ではなく過ごしてみたら、と思ったもので。
まあ、上にも書いたように、ラジオを流しっぱなしにしておくと、室内はそれなりに賑やかで(トークか音楽か、両方あるものか、を気分に応じて選びながら)、記事を読んだり片付け物をしたり、料理をしたり掃除をしたり、などという時間を過ごしました。


これはこれで、ありなんだな、というのが、個人的な結論かな。
テレビの「ながら視聴」と言っても、その殆どの時間は「何かをしながら音声を聞いている」時間であり、気になる話題が出てきた時に「ほんの一瞬だけ画面を見て確認する」程度しか見ないので、だったら最初から画面無しで、音声だけで説明されている方が、聞いている方としてはいちいち画面に何が映っているか、確認する行動を取らなくてすむ(もともと映像はないしw)というだけで、視線は自分の今の作業を見ながら、耳を音声に傾ける、ということができる、音声プログラムと言うのは、そういう媒体なのだな、と思えました。


農作業とか、様々な屋外作業で、ラジオを聞きながら仕事や作業をしている人は、今でも多いのではないか、と思います。テレビが普及して、ケーブルテレビや衛星放送が普及して、更にネットで視聴覚番組が配信される時代に、果たして「ラジオを含む音声プログラム」の可能性はどこにあるのか(ありそうに感じてましたが)と思ってましたが、これはこれでありそうです。


いろいろ細かく考えると、いろいろ論点が出てきそうですが、今は僕はそれ以上追求できないのですが。
こういう情報の受け取り方もあり、ではないかと思います。
そして聴取者が「音声プログラムから何を受け取り、何を感じるのか」は、聴取者の側の問題ではあるのですが。


ま、今夜はこの辺で。

2015年の陽は落ちて


2015年も、いよいよあと数時間で幕を閉じて、いよいよ2016年を迎えることになります。


9月27日までの通常国会が終わり、内閣改造後の臨時国会はなし。2016年は、年明け早々からの通常国会開催ということで、年が開けるなり国会論議が注目の的になりそうです。…なるでしょうか。なって欲しいとは思ってますし、ならないといけないと思える部分もあるのですが。


年の暮れを迎えて、ふと思いついたのですが。
もしかしたら「政治家が国民の意見に無関心」なのは、「国民が政治・政治家に無関心だから」だったりしないでしょうか?
根拠のある話でもないし、今ふと思いついただけなので、何の裏付けもない話なのですが。


例えば、新聞の軽減税率導入の議論において、新聞社・新聞業界にとっては注目するべき問題なのでしょうが、それは「市民」の視点から考えた時にどれほど注視されているのでしょうか。


あるラジオ番組で、ジャーナリストが語っていました。
「国民生活への負担軽減として軽減税率を導入する、と言うのなら、どうしてそれが食料品と新聞なのか。なぜ国民負担に直結するインフラ(水光熱費など)・医療への軽減税率は議論されないのか。今やインフラと言っていいほど普及しているネット・通信環境への軽減税率はなぜ議論されないのか」と。


まあ、「軽減税率論議」自体が、僕が思うには「軽減」ではなく「増税」であり、「一部増税されない品目がある」というだけなので、これを国民への恩恵とは思うことはできない議論ではある、と考えているのですが。


その他にもTPP(日本の産業と貿易、ひいては日本の経済の問題)であるとか、安保法制(日本の憲法との整合性の問題と、ひいては日本の国土・国民の防衛のあり方の問題)であるとか、様々な問題が解決することなく続いています。


来年の参院選では、もうすでに「自民党優勢」という記事が流れ始めています。自民党の3分の2以上の議席の獲得と、その後と憲法改正論議が、国会に上がろうとしています。
僕の中には、こうした流れに対して漠然とした危機感があり、その危機感については、自分自身もっとよく考えてみる必要がありそうだな、と思っています。


来年は、できるだけ、考える年にできたらいいな、と思ったりしますが。


日々の暮らしと政治との、見えるような見えないような繋がりは、普段は見えないようでいて確実に存在しているのではないかと。そうしたことを「見える化」できればいい、と思うのですが。
ま、少しずつ。できればいいな、程度しかできないのですが(笑)。


まずは、新年を静かに迎えることにします。
良いお年を。


P.S. あ、「今年なくなった方々 2015」、はてなブログの方で公開してます。
http://namiheijodee.hatenablog.com/entry/2015/12/30/184323