乱反射の光跡 in hatenablog

なみへいのブログです。hatenablogヴァージョン。

母と子と法律と


向井亜紀さんの最高裁判決と民法772条、いろいろと考えさせられます。柳沢大臣だけではなく、民法もまた「世間を知らない」ということなのかも。
『国家』と同じく、民法という「法律」もまた『国家』によって策定・施行される以上、「個人」よりも「国家の秩序」が優先されるわけで。今回の向井さんへの判決は「法律に照らせば」という前提において妥当なのかもしれませんが、おそらく民法772条と同じく「法律自体が現実の国民生活に合致したものかどうか」という点においての妥当性については、これから論議が必要でしょう。


「子」=「分娩した子」という等号がどの範囲まで有効なのか、有効でないのなら「親=子」の関係をどういう図式で示せばいいのか、難しい問題ですが、興味深い問題です。


「家族は、始めから家族としてあるのではなく、日々の生活の中で『家族になっていく』のだ」という考え方について、僕は前から考えていました。「家族」とはこれまで、血縁関係を前提としたものだったのですが、だから「生まれながらにして家族」という意識を醸成することになり、それがひいては「親の言うことを聞かない子供はこうだ」という「家庭内暴力」に(本人の意識しないところで)繋がってしまうのではないか、などと考えたりしたもので。


おそらく、血の繋がりがあるかないかに関わらず、「家族になる」ことはできるのではないかと。「家族」とは、あらかじめ血縁とか何かの繋がりによって最初から「家族としてある」のではなく、個人と個人(たとえ赤ん坊であっても)の日々の関わり合いの中から、時間をかけて「家族になっていく」ものなのでないかと。


向井さんも、「養子」だの「非嫡出子」だのといった区別がなく、「子」に対する法律的な(『国家』的な)判断基準(分娩とか、300日以内とか)がなく、純粋に「「母と子」の関係(個人の関係)において法律的判断が下されれば、納得ができたのかもしれないのですが。
民法772条問題も、向井さんの問題も、僕には「個人と『国家』」の判断の拠り所があくまで違う、という傍証になってくれたようです。


向井さん本人についても、今回の判決についても、僕は批判するつもりはありません。ただ、その判断の「根拠がどこまで人間に寄り添っているか、それとも『国家』に寄り添っているか」ということに興味があるだけで。