乱反射の光跡 in hatenablog

なみへいのブログです。hatenablogヴァージョン。

未来を「発見」する(曖昧に)

「このままではいけない」
誰もが、そう考えているような気がする。確かにそういう意見も聞いたり読んだりする。
しかし、ならばどうするか、何を変えるか、何を始め、何を止めれば良いのか。

未来は混沌として、ソーシャルネットではあることないことが乱れ飛ぶ。「確からしいこと」は確かなことではなく、「こんな酷いこと」は、よくよく確かめると事の様相が違うものだったりする。

おそらく「社会は成長する」という、これまで確かだったことは不確定になり、社会的な価値観が個人の中で、地域の中で、国の中で流動する時代は、今しばらく続くだろう。そうとしか思えない、社会の動きは続いていくような気がする。

そんな社会の中で、社会を構成する私たちは、自分たちの「社会の見方」を変更し、「社会との関わり方」を変更し、それによって「社会の進む方向」を変更する必要を強く感じながら、「ならばどうする?」という質問の前に立ちすくむ。

答えは簡単で「できることをする」しかない。個人にできるのは、それだけだ。
ここは割り切るしかない。日本の社会を概観して「やらなければならないこと」「やるべきこと」「やったほうがいいこと」がどれだけ山積していても、ひとりの個人にできることは限られている。すごく限られている、と言っていい。

現在、日本社会の鳥瞰図は大きく変化しようとしている、と感じている。
そこでは「社会の見方」が変化し、「社会との関わり方」が必然的に変化していく。極度の少子高齢化、経済格差・情報格差の拡大、社会基盤の分断と崩壊、解消できない対立感情。
個人の考える「みんな」の範囲は事あるごとに縮小し、「仲間」は両手で数えられるほどに減少し、逆に「日本人は」という括りで語られる言説は全体主義的になり、国家主義的になる。

実は「全体主義」や「国家主義」は、価値観の流動化する社会の中で生きるには「楽な生き方」なのかもしれない、と思ったりもする。自分で考え、自分で悩む必要はなく、誰かの考えに流され、誰かの怒りに共鳴し、誰かの言説にただ乗りするのは。それはとても「楽な生き方」なのだろうな、と思う。

でも、それではいけない、と同時に思ったりもするのである。
「社会の見方」が変化し、「社会との関わり方」が変化する状況の中では、自分で考えて自分で判断し、自分の人生を自分で選び取る必要がある。そういう「自分の人生の基礎」を固めて置かないと、他人の言説、他人の怒り、他人の考えにいいように振り回されてしまうようになってしまうのではないか。

流動化する社会を泳ぎ、溺れずに未来に辿り着くには、誰も見ようとしない「未来の社会」を「発見する、あるいは発明する」必要があるのではないか。
それは、個人ではできないことなのかもしれないが、その僅かな欠片でも手に入れられたら、「未来に対する希望」を見つけられるのではないか。

そんなことをふと考えたりする。

曖昧ですんません。