乱反射の光跡 in hatenablog

なみへいのブログです。hatenablogヴァージョン。

相変わらず、うだうだと考えているのだが

もう6月になってしまって、何も書き残してないことに気付いたりして。
なんか、いろいろ文章にして、残しておかないと、という気持ちにもなってきましたので、とりあえず。

ここ最近、「検事長定年延長問題」や「検察庁法改正」についてツイッターなどで反対意見が盛り上がり、政権が法案の成立を諦めるなど、国民からの政治的意見表明が行政を動かす、ということがありました。「種苗法」の改正断念にも、著名人のツイートの影響が指摘されています。

今回の一連の動きは、とても印象的でした。
「#検察庁法改正案に抗議します」というハッシュタグの広がり、そしてその問題点の共有の広がり方が、これまでにない広がり方をしたように思います。

この広がりは話題になり、ツイッターだけでなくメディアも取り上げたりしていました。この現象が、これからの、幅広い人々の「政治参加」への社会的な、また個人の意識的なハードルを下げるきっかけになってくれると、いいかな、と期待したりしています。

今回のコロナウイルス禍で、多くの人が(初めて、あるいは改めて)気づいたのではないでしょうか。「政治は、個人の生活と無関係ではない」ことを。
社会生活、経済、教育、医療、さまざまな領域に、「政府のコロナウイルス対策」がさまざまな影響を与えることになり、そのことでとても広範な範囲の国民が直接的・間接的に影響を受けることになりました。

そして、「政治」というのは、国民が資金を投資(=税金の収納を)して、国民が選んだ代議員に、国家の運営について協議や議論を任せ、その結果施行される政策の恩恵を(投資の代価として)受け取るものだと思っています。

「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。」
日本国憲法 前文)

民主主義社会とは、誰かが考えた政策を、自分ごととして考える社会、でもあると思います。
感染症対策のことを、考えてみればいいのでは、と思います。
国民は主権者として、政府や政治家の発言は、「自分(主権者)に対する言葉」として聞いてみる必要があります。

本来ならば、国民は国政を「自分ごと」として捉える努力を求められる、不完全であっても。
それが、民主主義の基板なのかも? とか。