乱反射の光跡 in hatenablog

なみへいのブログです。hatenablogヴァージョン。

著作物の利用とかなんとか


ほろ酔いで書くのだが(笑)。

ネットを追いかけていると、時折ネットで公開している絵を無断で商品にされて売りに出されたり、プロとして活動している方にタダで仕事を依頼して、断られると悪態をついたり、断られても無断で利用して商品に使われた、という話が時々流れてくる。
これは、何なのだろうか。そうした記事を見るたびに、そう思う。


著作物の、著作権者の許諾なしでの利用は著作権法違反でもあるし、(個人的には)それ以上に著作者の「作品を創作すること」への軽視であり、いくら言い訳をしても、著作者が許諾しないままの作品の利用は(自覚的に行うならなおさら)「著作者の創作行為へのあからさまな積極的侵害」になるのではないか、と思っている。


著作権法とか二次使用については今もネット上でのアイデアの提示や議論がなされているし、専門的なことについては、詳しい人がネットにはいくらでもいるし、浅薄な知識しかない自分が何かを言えるわけではないけれど。

それ以前に、個人が創作し、個人が公開する創作物には、その個人の「創作へのモチベーション」が注ぎ込まれている、と考えている。そういう「モチベーション」は誰もが共有できるものでもないし、異なる個人が同じモチベーションを抱いたとしても、そこから出てくるアウトプット(創作物)は当然異なる。「モチベーション」に注がれる知識や情報、社会経験や感情は個人によって異なるのだから。
ひとつの創作物には、そこからは見えない背後に無数の「創作物にならなかった個人の知識・情報・感情・経験」が死屍累々と横たわっている。それはまた別の創作物で蘇るものなのかもしれないが、未来の著作物がどんなものになるのかは作者も知らない以上、それらは、蘇る可能性を抱きながら死に続けているのかもしれない。


創作物というのは、そういうものを背後に隠したまま、人の目の前に具象的な姿を現す。
それは可愛かったり、萌えるものだったり、多くの人にウケたりするものになるかもしれないが、そこには、見えない所に横たわる「死屍累々」を乗り越えて人の眼前に出てくるものなのではないか。
そういう創作物に対して、論評し、評価し、批判することは構わないことだし、その創作物に出会った個人の自由なのだと思う。


著作者が、自分の創作物の無断使用に、赤の他人には神経質に思えるほど敏感になるのはなぜか。
著作者のみが、その作品の影に横たわる「死屍累々」を、目の当たりにし、「ひとつの作品のために殺された諸々」の存在を知っているから、ではないのだろうか。
そうした「死屍累々」を見送りながら生まれた創作物を、「タダで、こっちの勝手に使わせて」と言われると、怒るのは当然だろう、と思えるのだが。

だからこそ、他人の創作物は「繊細に、丁寧に」扱わなければいけないし、ましてやそれで商売するならば、その創作物の足元に埋まる「死屍累々」、作品にならなかった「アイデア、感情、知識、情報」をも引き受ける覚悟が必要なのじゃないか。


などと、こんなことを思ったのは、個人的な創作物を勝手に利用しようとする人たちと、日本のアニメが海外で評価される状況を目にしてビジネスチャンス、とか言い始めた有象無象(広告代理店とか?)がダブって見えてしまったからに他ならない。
「クールジャパン」とか言って、マンガやアニメが日本が発信するべき文化なのだとしたら、そして行政がそれに本腰を入れる、というのなら、行政は創作の陣頭に立つのではなく、そうした創作の現場を支えて「死屍累々と横たわる」現場のスタッフを支えるべきじゃないのか。


文化、と言いつつ創作者・制作者の上澄みを美味しく吸いたい行政・代理店の戦略と、個人の創作物を自分の商売に利用しようとする「公開作品無断使用者」とは、根幹で繋がっている(共通の価値観を持っている)のではないか?
それは「文化の保護」を言いながら「文化の侵害」を企てているもの、なのではないか?

それを許すことで迎える未来は、それこそ「死屍累々」となるのでは、ないか?

論理破綻、ご容赦を。