乱反射の光跡 in hatenablog

なみへいのブログです。hatenablogヴァージョン。

むにゃむにゃと考える


唐突に、更新してみる。誰も読んでないだろうが(笑)。


やっぱり、頭は使った方がいい、と思ったりする。
地方自治体の開票結果の操作問題、地方議会の選挙での2/3の議員の公職選挙法違反事件、議会でのヤジ問題、エトセトラ、etc…。
これらを考えてみるに、「漫然とこうだと思っていること」が、「実はとんでもないこういうことだった」ということが、そこら中に蔓延しているのではないか、と思ったもので。
ちゃんと理解してもらえるように文章を書くには、文章量の10倍は考えないとかけないだろうとも思えるので、ここの文章で理解してもらえるとは思っていないけど。


開票結果の操作。
これはどんな状況においても、やってはいけないこと、だと思うのだが、なぜやってしまったのだろう?
国民の、住民の、意志を行政に反映させるために、選挙というのは行われるわけで、それは現在「主権者である国民の意見や意志を、行政に反映させるための意見集約のシステムであり、多数決の原理が協議と合議の果ての、集約しきれない意見を(現時点で、とりあえずの合議として)集約するためのものであると同様の、最終的な多数決の最良の方法」として認知されているのが、選挙ではないのだろうか。

選挙の結果は「分裂した行政方針を、先に進めるための『やむを得ない多数決』の結果」でしかなく、選挙の結果は結果として、分裂した行政方針は分裂したまま(住民の意見の中で)であるだろうし、その分裂した行政方針に一定の方向性に基づいて集約することに努力するのが行政の役割であり、政治家の仕事、なのではないのか。

選挙の開票結果というのは、そういう「ギリギリの選択としての多数決」であり、ホームとアウェイを決めるだけの「スタート地点」である、と考えてもいいのではないか、とか思う。


政治と行政の選択は、未来を天秤にかけるという意味で「どっちに転ぶかわからないものを選択する」という行為であり、合議ではないからこそ「結果はその後も繰り返し検証され直すべきもの」であるとも思う。しかしその選択(選挙結果)が、選挙管理委員会の「数を合わせるため」という理由で捻じ曲げられる、というのは、主権者である国民を無視した行為なのではないか。
主権者が国民であるなら、選挙の結果に不整合が生じれば、それを報告するのは「主権者である国民」に対して、であろう。 その上での集計のし直し、未開票の投票用紙がないかどうかの再チェック、あるいは主権者の意志としての再選挙、というリカバリーの手段を、最終的には主権者である国民が行うべきなのだが。


こういうの、ムニャムニャと考え始めると止まらなくなるので、ついついブログとかを書くところまで行かないままに過ごしてしまうのだが、まあ、それもアレかな、とか思ったりするので、メモ程度にここに書き残しておくことにします。またこの続きは、書いたり書かなかったりすると思いますが(笑)。