乱反射の光跡 in hatenablog

なみへいのブログです。hatenablogヴァージョン。

またしても子供が…

 またしても、「やりきれない」事件です。

 子供の安全を守るために用意されたであろう筈の「保護者による送迎」の車内が、瞬時にして「他人の子供を連れ回す殺人容疑者」の車内へと変貌してしまったのです。この変貌は、関係者にとってあまりにもショッキングな事ではないでしょう。子供の安全を守るために用意されたのが、「容疑者と被害者の子供との車という密室」だったのですから。


 このところ相次いで起こる、子供が被害者となる事件。

 ひとつ気になっているのは、犯罪者である大人から見て、犯罪行為の対象となった子供が「特定のある子供」ではなく、「たまたま近くにいた子供」である事。

 いくつかの事件で容疑者が逮捕され、容疑を認めていますが、滋賀県長浜市の事件、昨年の広島市の事件など、どう考えても「なぜその子でなければならなかったのか?」という設問に対する答えは、ネットのニュースを見ている限り見つけられませんでした。容疑者から見れば犯罪行為を犯す何らかの理由があったのでしょうが、その犯罪行為の対象として被害者が選ばれた理由があまりにも希薄ではないか、という疑問を抱いてしまうのです。


 殺人という犯罪行為においては、容疑者の「動機」が問題になります。いわゆる「動機のある」事件では、その犯罪行為が行なわれる以前に、容疑者が被害者の言動に自分の「憎悪」や「殺意」を掻き立てるようなものがあったり(被害者の言動がそれを認識していたか、には関わらずですが)、どこかで容疑者と被害者の間にある程度の「関係」が構築されていて、その関係の悪化が犯罪行為に結びつく、というパターンがあるのではないでしょうか。


 しかし、昨今の子供が被害者となってしまった事件においては、犯罪行為の動機がこの「容疑者と被害者の関係」と強く結びついてはいないような気がします。

 滋賀の事件では、容疑者はその供述によると、「子供が周囲になじめない」など、自分と他の母親の関係を含め、「子供と周囲の関係」「自分と周囲の関係」が殺意の原因になっている事を認めています。

 しかし、「どの子供でもよかった」とも供述しているようで、それは自分が抱いた殺意の対象と、犯罪行為の対象に「ずれ」が生じている、という事ではないかと思います。


 子供と大人の間で「憎悪」や「殺意」が芽生える、それも大人から子供への「殺意」というのが表面に出てくるようになったのは、ここ最近のような気がします。そして、最近の殺人においては、「なぜ、(他でもない)その子供だったのか」という問いに対して「たまたま(近くにいたから)」という答えしか返せない事件も増えてきているようです。

 被害に遭った子供の家族、親族にとっては最も重要であるはずの「なぜ、この子が?」「どうしてこの子でなければならなかったのか?」という問いは、「たまたま」という答え以外にはっきりとした解答を得る事もなく、いつまでも遺族の周囲を漂い続ける他はありません。


 なぜ、この子が?

 どうして、この子が殺されなければなかったのか?


 これらの犯罪行為に特徴的に見られる、「殺意の対象」と「殺害行為の対象」が「ずれてしまう」現象。なにかここには、社会全体に関わる重要な論点が隠れているような気がします。

 思い出すのは1999年に東京都文京区で起こった事件。

「同じ母親」でありながら、「同じ母親」であるがゆえに、自分の子供と同い年の顔見知りの母親の子供を殺害してしまった事件。そこには「同じ母親」としての共感ではなく、「同じ母親であるがゆえ」の対立構造が隠れていたのだと思います。(僕のホームページの文章『異常な社会の普通の犯罪』


 そんな社会の中で、そんな社会だからこそ、「子供の安全」については、安易に流れないように気をつけながら考えていかなくてはならないのではないか、などとも思ってしまいます。


 最近の事件を眺めながら、大ざっぱですがそんなことを考えてしまいました。