乱反射の光跡 in hatenablog

なみへいのブログです。hatenablogヴァージョン。

萬屋直人『旅に出よう、滅びゆく世界の果てまで。』

旅に出よう、滅びゆく世界の果てまで。 (電撃文庫)

旅に出よう、滅びゆく世界の果てまで。 (電撃文庫)


あはは、本人もびっくりしている、連日更新(笑)。


意外と、というと失礼なんですが、楽しめました。
前評判とかあまり気にせず、『SFマガジン』08年6月号で十数行の紹介文があったのをぼんやり憶えていて、本屋で目当ての本を見つけたついでに目に留まり、何気なくレジへ持って行ったというわけで、自分的には大きな期待を抱くことなく読み始めたのですが。
今日一日、なんかまったりと、楽しく読んでしまった(笑)。


人々が次々と名前を失い、色を失い、影を失って文字通り「消滅」して行ってしまう世界。その原因はわからず、避ける手段もない。
そんな世界の中で、スーパーカブに乗せられるだけの生活物資の乗せて旅を続ける少年と少女の話。少年と少女の名前もすでに失われていて、ふたりはお互いを「少年」「少女」と呼び合う。


こう書くと何やら暗い話に思えるかもしれませんが、元気な女の子とほんわかした男の子の「貧乏ふたり旅」(笑)、少しだけ心が震え、ところどころでくすくす笑わされ、読後感はどこか清々しいものがありました。


もちろん人々が消えてしまう「喪失症」と呼ばれる現象は人々の生活に大きな影を落としているのですが、それにことさら固執することなく、人々は目の前にいる人に対峙し、目の前の事象に対応して行動する。
そこにあるのは滅びゆく世界に対する「諦念」でもなく、壊れて行く世界に対する「怒り」や「感傷」ではない。


もちろん身近にいる人間にとって、「消滅」はとても哀しく理不尽なことでもあるけれど、それは「死」と一緒で、だけど「死」よりも徹底的な「抹消」と呼べるもの。消えて行く本人だけが名前や色、影を失うのではなく、その人の面影や記憶は、その人に関わった人からも失われて行く。


そんな中でも、少年と少女は前を見て、明日を見ながら、旅を続ける。そこには「希望」も「絶望」もないが、その「希望」も「絶望」も、個人が要求する「世界」に対する「おねだり」なのだとしたら、彼等にはそのようなものは必要ないし、彼等も求めている訳ではない。少年と少女は何かを求めながら、「今、ここ」にあるお互いの、そして他の人々との「交歓」に注力する。


それはとても清々しく、優しく、凛々しい。
もしかしたらこれも、ひとつの「限りある日常」を描いたもの、かもしれない、などと思ったりもしますが。なんてことを考えると、『SFマガジン』に連載されていた、宇野常寛氏の論文を読み返したくなってしまう(笑)。