乱反射の光跡 in hatenablog

なみへいのブログです。hatenablogヴァージョン。

少年ナイフ(大違)


学級活動中、小6男児が同級生をナイフで切る…岡山


 小学生がナイフを振り回す。何より、大きなケガにいたらなかったのは不幸中の幸いと言っていいのかも。


 ちょっとした口論からカッとなり、衝動的にナイフを持ち出してしまった、というところなのでしょうが、いろいろ考えさせられたりして。


「昔は」などと言い出すと、酔っ払いのおっさんの説教みたいで、自分でもイヤになるのですが(笑)。
 僕などが子供の頃の(はるか数十年前)、「口論」が激してくるとまず「取っ組み合い」へと発展するのが一般的で、ナイフのような「凶器」が登場するのは「取っ組み合い」で不利になった側が持ち出すか、あるいは「取っ組み合い」がさらにエスカレートしてしまった場合、だけだったように思います。
 この「口論 → 取っ組み合い → 凶器攻撃」という、「喧嘩のグレードアップのステップ(笑)」のようなものがかつては存在していたのが、最近の事件を見ていると「取っ組み合い」というステップが「喧嘩の当事者の意識」から抜け落ちているような、そんな印象を持ってしまいます。


 学校の中では「暴力」というものに対する強い忌避感があるのだと思いますが。もしかしたら「暴力」の全否定が、人間にとって時としては必要となる「拳を交える」ような、「人間同士のぶつかり合い」としての「取っ組み合い」をも否定してしまい、その結果が「取っ組み合い」をパスする形での「口論 → ナイフ(凶器攻撃)」という「喧嘩のグレードアップのステップ」を招来しているのかも、などと思います。


 そんな訳で、今の子供たちには「ちゃんとした喧嘩」ができない、あるいはさせてもらえないような状況に置かれているのではないでしょうか。
 もしも「喧嘩」が対等な立場に立つ人間同士の、ひとつの「コミュニケーション」であるならば、「喧嘩」は全否定されるものではなく、そこに「喧嘩のルール」のようなものがあって、その「ルール」を子供たちに認識させる必要があるのかもしれません。
「ちゃんとした喧嘩」とは、ひとりひとり違う人間同士が、その価値観を賭けて、「お互いを対等だと、お互い認識した上で、取っ組み合う」ことです。今、僕が定義してみたのですが(笑)。


 この事件は、この「対等な取っ組み合い」が今の小学生にはできないことを、図らずも表現しているように思えるのですが。


 そう考えると、校長先生の「命の大切さを伝える」というリアクションが、なんか全く的を外しているように聞こえるのは、僕だけでしょうか?