乱反射の光跡 in hatenablog

なみへいのブログです。hatenablogヴァージョン。

「喧嘩」と「暴力」

少年ナイフ(大違)の続きになりますが。


「喧嘩」は、「暴力」とは違う。
 自分が子供だった頃のことなどをぼんやりと思い出しながら、おっさん(笑)はあれこれ考える。


「喧嘩」とは、子供同士においてのひとつの「コミュニケーション」だったのではないか、と。そしてそれは、「暴力」とは全く別のものだったのではないか、と。
 ここで言う「喧嘩」とは、口論などの自己主張のぶつかり合いなどから起こる「取っ組み合いの喧嘩」を指し、1対1が基本です。多対1の関係で起こる「いじめ」や、集団同士でぶつかり合う「抗争」などは、全然別の話になります。


 例えば口論などから発展して「取っ組み合い」にいたる場合、その過程で「小突き合い」のような状態を通過することがあります。肩をちょっと小突いてみたり、胸を押してみたりするのですが、それは「力」に訴えるというのではなく、どこか相手の様子を窺っていたりする状態です。
 こうした「小突く」みたいな行為は、相手への挑発でもあるのですが、それは「取っ組み合い」への「誘い」でもあり、相手に向かっての「問い合わせ」でもあるように思えます。この「誘い」「問い合わせ」は、相手の意思や感情の高ぶりを確認する意味があり、「自分の意を発し、相手の意を確認する」、コミュニケーションでもあるのではないか、と思うわけです。


 という風に見ていくと、1対1の「取っ組み合いの喧嘩」というものは、「身体を使った自己主張の遣り取り」であり、そうすることをお互い了解したからこその「取っ組み合い」なのではないかと思うのです。どちらか一方が拒否してしまえば、それは「取っ組み合い」にはならないわけですし。


 ここに、「喧嘩」と「暴力」の小さくて大きな違いがあるように思うのです。


「暴力」は個人の感情や意思から引き起こされる行為であり、暴力の対象がその暴力を「了解しているかどうか」を考慮に入れることなどしません。暴力の行為者と対象者が1対1であっても、そこには「取っ組み合い」に見られる双方向の感情や意思の確認はなく、一方的な「暴力行為」の発露があるだけです。


「取っ組み合いの喧嘩」とは、こうしたお互いの一定の了解という、ベースを共有した上での、お互いの譲れない自己主張を主張し続けるために起こる「コトバだけではない、身体をも使った自己主張のぶつかり合い」ではないかと思うのです。「喧嘩」が「コミュニケーション」であるというのは、そういう意味です。


 子供同士の間での、こうした「譲れない自己主張のぶつかり合い」を容認すること、子供同士の「取っ組み合い」を容認するような風潮が、かつての社会にはあったように思います。そしてそこには、「取っ組み合い」を「コミュニケーション」として成立させるような、ある意味「暗黙のルール」のようなものが存在していたと思います。
 それを一緒くたに「暴力」として人間の社会的関係から排除し、封印することは、僕が以前から考えていた「排除と隠蔽の論理」のひとつの姿でもあるのでしょう。


 だからと意って、「取っ組み合い」をさせればいい、というものではありませんが。自分が子供だった頃のことなどを考えてみれば、そうした「取っ組み合い」を自分の身体で経験していく中で、自己主張の仕方、相手の自己主張の受け止め方を考え、自分の考え方を修正し、相手とのコミュニケーションの仕方を学んでいったように思うのです。
 もちろん「コミュニケーション」である以上、相互に通じる「ルール」が必要だとも思うのですが。


「喧嘩のルール」については、また今度書くことにします。